歴史のミステリー 
80 
DeAGOSTINE 
杞憂ではなかった日本戦両計画

 キリシタン大名の援助と武力征服

  前出の古川氏は、「秀吉のキリシタン禁教は、露骨な植民地主義に相乗りしたキリスト教の布教に対する危機感からきたものだった」と記している。
 その一例としてあげられるのは、イエズス会によるキリシタン大名への軍事支援だ。イエズス会は前述した大村純忠への援助のほか、1579年に肥前の有馬晴信にも武器供与を行なっていた。そしてその翌年、巡察師ヴァリニャーノが作成した『日本の布教長のための規則』に記:されていたのが、長崎。茂木軍事要塞化であったであった。さらに前出の高瀬氏によれば、ヴァリニャーノこめ頃に晴信に軍事的てこ入れを行ない、「武力征服が布教のための有効な手段」であるという旨を記述していたという。
 また、追放令が発令される2年前にあたる1585 (天正13)年3月、コエリョはスペイン領フィリピン教会の同僚に「キリシタン大名救援のために、武装艦隊の派遣につき総督に取り次いでもらいたい」と要望していた。この要望は「軍事力を割くだけの余裕がない」という理由で拒否されたが、も:しそれがかなえられていた場合、日本の独立は危うかったとみる向きが強いのだだ。
 これに先立つ1580年、宣教師たちをインド、日本へと派遣したポルトガルは、スペインによって併合されていた。これによって広大な領土を手にしたスペインは、「無敵艦隊」とよばれた最強の海軍を駆使し、フィリピンに次いで中国の武力制圧を視野に入れる。そのすぐ東側に位置する日本もまた、その例外ではなかったのである。
 こうした状況から高瀬氏は、「宣教師がキリシタン大名に対して軍事的てこ入れをしたことと、彼らが日本をカトリック国にすることを夢見て、ポルトガルやスペインによる日本征服を企図したこととの間には、本質的な差異はない」と解説しているのだ。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]