歴史のミステリー 
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DeAGOSTINE 
杞憂ではなかった日本戦両計画

 ヴァリニャーノが阻止した強硬論

 1587年のバテレン追放令を受けた宣教師たちは、平戸沖合の度島(たくしま)に集結して会議を行なった。前出の古川氏によれば、この席でコエリョらは「キリシタン領主を集めて秀吉への反乱を起こさせ、イエズス会はそのための軍資金や武器を集めること、スペイン軍を日本に導入し、軍事要塞を作ること」などを発議したという。
 ところが、頼りにしていた純忠と宗麟は同年6月に相次いで他界していたため、コエリョらは晴信、小西行長らに働きかけた。だが、秀吉の九州征伐に加わって功を立てたばかりのふたりにとって、コエリョらの提案は一考の余地さえないものだった。晴信も行長も、この申し出を黙殺したのだ。
 するとコエリョらは、今度はフィリピンの各地方に援軍を要請する書簡を送るとともに、在日イエズス会司祭モーラをマカオに派遣。そこに滞在していたヴァリニャーノを説得し、続いてヨーロッパへ遠征させてスペイン国王やイエズス会総会長の理解を得ようと図る。この動きは、協議に出席した司祭7人のうち6人の賛成で決められたものであり、いわば日本イエズス会の総意によるものだった。
 しかし、モーラが携えた書簡を受け取ったヴァリニャーノは、モーラをともなって日本に戻る。そして、長崎に貯えていた武器弾薬を急いで処分させると、宣教師が企てた軍事行動はすべてコエリョの独断によるもので、イエズス会とは関係がないことをさかんに吹聴。1590(天正18)年の協議会で、大名間の争いに教会が介入すること、教会が武力を保有すること、キリシタン大名への軍事援助などを禁じたのである。
 前出の高瀬氏はこうしたイエズス会の方向転換の理由を、「強力な統一政権が成立し、これが教会に対して、厳しい姿勢で臨むようになった、というわが国の国内政情の変化意外に考えられない」と述べている。つまり、秀吉によるバテレン追放令がもしなかった場合、イエズス会の方向転換も行なわれなかった可能性が高いのだ。
 
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