歴史のミステリー 
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DeAGOSTINE 
杞憂ではなかった日本戦両計画

 フランシスコ会との対立

 秀吉はバテレン追放令を発したものの、利益を生み出すポルトガル貿易は継続させようとしていたため、ある程度の宣教は黙認していた。キリシタン大名に匿(かくま)われたイエズス会宣教師たちは、依然として活動を続けていたのだ。
 ところが、日本イエズス会の立場は、別の理由によって揺らぎはじめる。1591(天正19)年、秀吉がスペイン領フィリピンに対して帰順を促す書簡を送りつけたことで、日本とフィリピンとの外交交渉がさかんとなり、それにともなって多数のフランシスコ会宣教師が来日。イエズス会は日本伝道における独占的な地位を失ったのである。フランシスコ会はポルトガルを併合したスペインの保護下にあったが、イエズス会との競合関係にあることは変わらなかったのだ。
 そうしたなか、1596 (慶長元)年にスペイン船サン=フェリペ号が土佐に漂着し、秀吉のキリスト教弾圧が再燃する。その原因は、乗組員のひとりの「わが国では、まず宣教師を派遣してキリスト教信者を増やしてから、軍隊を指し向けて国土を占領する」との発言が秀吉の耳に入ったためだという。一方、同船司令官・ランデチョーは『遭難始末』で、ポルトガル人のイエズス会宣教師が「スペインはまずフランシスコ会宣教師を派遣してからその国を征服する」という讒言(ざんげん)を行なったためだと書いている。
 どちらが真相であるかは不明だが、秀吉は布教禁止を無視したという理由によってフランシスコ会宣教師を中心とする26人の信者を処刑した。「二十六聖人殉教」とよばれる事件である。この翌年、秀吉はフィリピン総督への外交文書に、「密かに聞くところでは、その国では布教を権謀として用い、外国を征服・統治しようとする」と公式に記している。
 前出の高瀬氏によれば、イエズス会士のなかにはこの「二十六聖人殉教」を、フランシスコ会の修道士たちがスペイン国王による日本支配を狙ったから発生したとして彼らの責任を問い、「彼らのことを“殉教者”と呼ぶのに異議を唱える者もいた」と述べている。
 
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