歴史のミステリー 
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DeAGOSTINE 
杞憂ではなかった日本戦両計画

 家康に引き継がれたキリシタン禁止令

 徳川政権はキリスト教への警戒心をもちながらも。秀吉と同様に貿易の利益を確保するため、キリスト教に対する寛容政策を打ち出していた。
 1588 (天正16)年、スペインの無敵艦隊がイギリス海軍に敗北したことで、世界の勢力バランスはスペインをはじめとするカトリック国の優位から、イギリス、オランダを中心とするプロテスタント国の優位へと移っていった。それにともなって日本でも、1600(慶長5)年にオランダ船リーフデ号が豊後に漂着したことをきっかけに、オランダ・イギリスとの通商が開始された。
 そののちの1609 (慶長14)年、マカオ貿易にかかわるいざこざから日本人が殺害され、家康の命を受けた有馬晴信と長崎奉行・長谷川左兵衛がポルトガル船デウス号を撃沈した。事件後、幕府年寄・本多正純の部下である岡本大八は、その恩賞を家康に掛け合うと偽って晴信に多額の賄賂を請求する。これを晴信が正純に問い質したことで汚職が露見。大八は処刑されるのだが、のちに晴信が左兵衛を謀殺しようとしていたことが発覚する。結局、晴信は火刑に処されたが、家康は大八、晴信の両名がキリシタン信徒であったことを重視。時を同じくして旗本や奥女中のなかにも多数の信者がいることが明らかになったごとで、家康は徳川政権初となるキリシタン禁令に踏み切ったのである。
 1612 (慶長17)年8月6日、幕府は5力条からなる禁令を発した。その第一に記されていたのが「伴天連門徒御制禁也」である。さらに1614 (慶長18)4月、正純はキリシタン大名・大村純忠の子で、自分の代になってから反キリシタンとなった喜前(よしあき)を駿府に呼び寄せて事情を聞いた。すると喜前は、キリシタン布教には領土的野心があること、キリシタンは領主の掟に背いて礼法を乱したことなどを述べ、幕府は「伴天連を全員死罪に処すべき」「長崎の教会施設破却すべき」であると具申したという。そして、こののちの同年12月、幕府はキリスト教の全国的な禁教令を発令したのであった。
 これ以降、キリスト教は激しく弾圧され、1619 (元和5)年には京都で52人が殉教。1622 (元和8)年には長崎で55人が殉教するという「元和の大受難」が起こり、翌年にも江戸で55人が処刑されている、キリシタンの禁制が完全に解かれたの、1873(明治6)年のことであった。
 
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