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投下都市はどのように決められたのか? 【通説】 原爆の投下目標の選定基準は、原爆の効果がわかるように無傷の都市であること、そして、爆風で効果的に損害が与えられるような地形であることとされていた。 当時、東京・大阪・名古屋などの大都市はすでに空襲で焼け野原と化していたため、候補地にはならなかった。また、歴史的建造物が多い奈良・京都は、リストから外されていたという。結局、原爆投下を想定して「残されていた」いくつかの都市の中から、広島と長崎の名前が残った。さらに広島は、アメリカの捕虜収容所がないという理由によって、第一目標にされたという。 1945年8月6日、午前2時45分、マリアナ諸島テニアン島の飛行場から、「エノラ・ゲイ」と名づけられたB29爆撃機が広島をめざして離陸した。機内にはウラニウム型原爆「リトル・ボーイ」が搭載されていた。午前7時25分、先行して出発した偵察機から、広島が快晴であるという報告が入る。午前8時過ぎ、広島上空に侵入したエノラ・ゲイは、相生橋に照準を合わせて、史上初となる人類の頭上への原爆投下を実行した。 その3日後の8月9日午前11時頃、プルトニウム型原爆「ファットマン」を搭載したB29爆撃機「ボックスカー」が、長崎上空に達した。雲の隙間からわずかに地上が確認できる程度の視界だったが、パイロットは投下を決断。11時2分、松山町上空から原爆を投下した。 【検証】 原爆をどこに投下するかについては、マンハッタン計画の主要メンバーであるグローブ陸軍少将が中心となって選定作業が行なわれた。グローブ少将は回想録の中で、「選定された諸目標は、その爆撃が戦争を続けようとする日本国民の抗戦意識をとくに挫折させるような場所を定めた」と記している。 これに関連して、『別冊歴史読本 太平洋戦争のすべて』(新人物往来社刊)には、驚くべき内容が記されている。政治的な理由で無差別攻撃の対象となっていなかった皇居が、原爆下目標の候補地としてあげられていたというのだ。しかし、さらに理想的な投下地が設定されたため、東京は除外された。その候補地とは、それまで空襲を受けておらず、盆地であるために効果測定が行ないやすいとされた京都であったという。 ところが、投下目標が京都に決定される寸前、スチムソン陸軍長官から、京都への投下に対して待ったがかかった。スチムソンが反対したのは、フィリピン総監時代に来日して京都を訪れ、文化遺産が残る町並みに感銘を受けていたからだという。 ただし、京都が原爆投下を免れたのは、実力者スチムソンが個人的に反対したからであって、それ以上の理由はないようだ。樟蔭女子短期大学教授・吉田守男氏は著書『京都に原爆を投下せよ』の中で、アメリカ軍が文化財を守るために京都への爆撃を行なわなかったというのはまったくの誤りで、京都・奈良を爆撃するなという軍事命令は一切出されていなかったと断言。大都市である京都が本格的な空襲を受けなかった理由は、原爆投下の主要目標として一貫して狙われ続けていたからであると主張している。 そして実際、1945年4月末に行なわれた目標選定委員会では、地理的にも規模的にも最適であり、日本の知的中心であるために「住民が原爆の意義を正しく認識する可能性が高い」として、京都は原爆投下地点の第一候補とされていた。スチムソン陸軍長官の強い反対がなければ、京都に原爆が投下されていた可能性は高かったのである。長官の説得を受けたグローブ少将は、候補地から京都を除外。7月の時点で候補地として残されたのは、広島、小倉、新潟、長崎であった。 そして、原爆投下機の発進基地から遠すぎるという理由で新潟が候補から外れ、1945年8月2日には、@広島A小倉B長崎という優先順位が決定される。広島が第一候補となったのは、その中で最大の都市であり、陸軍の施設が数多く存在し、主要港として機能しているなどの理由によるものだと考えられている。 第二候補とされた小倉が原爆を免れたのは、偶然にすぎない。1945年8月9日午前9時、2発目の原爆を搭載したB29爆撃機が、小倉上空に姿を現した。しかし、投下目標の造兵廠の上空はすっかり雲に覆われていたために、次の候補地であった長崎へと向かったのである。 |
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