歴史検証ファイル 
世界初の核攻撃
“原爆”投下の真相
DeAGOSTINI
 

 原爆投下はいつ決定されたのか?

【通説】

 1945年4月12日、ルーズベルト大統領が急逝し、副大統領のトルーマンが第33代大統領に就任した。同年7月17日、トルーマンはルーズベルトに代わって、アメリカ・イギリス・ソ連の3力国首脳が集まったポツダム会談に参加。この際、トルーマンはチャーチルに、もし日本がポツダム宣言を受け入れる気がなければ、原爆を使用するという暗黙の了解をとったという。
 7月26日、アメリカ・イギリス・中国の3力国は、日本に対して無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表。中国の名が入れられたのは、会談に参加したソ連が日本に対して中立を保ったためであった。
 しかし、宣言を受けた日本はこれを黙殺。あくまでも徹底抗戦の構えを見せたのである。ここに至ってトルーマンは、ついに原爆投下を決意した。スチムソン陸軍長官とマーシャル参謀総長は、ワシントンに戻った大統領の許諾を受けて命令書を作成する。それは、アメリカ戦略空軍司令官カール・スパーツ将軍に、原爆投下を命じるものだった。
 「8月3日以降、できるだけ速やかに初の特殊爆弾を投下せよ。目標は、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかだ」――。発信人は、参謀総長トマス・T・ハンディーと記されていたが、それは当然、トルーマン大統領の決断によるものだった。

【検証】

 驚くべきことに、トルーマンが原爆投下の命令書を作成したのは、7月25日のことであった。つまり、ポツダム宣言が日本側へ伝えられる以前から、原爆投下は決定されていたのである。
 では、いったい誰が、この既定路線を敷いたのだろうか。
 原爆開発の発案者であるルーズベルトは、通告なしの原爆投下には反対だったといわれている。『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』を著したロナルド・タカキ氏は、ルーズベルト大統領はアレクサンダー・ザックス博士に「必要とあればドイツと日本の両方に原爆を使う。しかし、その前には示威実験を行ない、最後通告を出す」と語っていたと記している。
 一方、ルーズベルトのあとを継いだトルーマン大統領は、マンハッタン計画の存在を知らされて以来、終始一貫、原爆投下に積極的であったという。副大統領という地位にあったにもかかわらずマンハッタン計画を知らされていなかったトルーマンには、その是非を判断するだけの情報、時間、判断力が不足していた。彼にあったのは、莫大な経費を投入した国家プロジェクトである以上、成果もなく終了してはならないという考えだけだったと見られている。そんなトルーマンは結局、彼を支えていた原爆推進派の国務長官ジェームズ・バーンズに誘導され、原爆投下を決定したのだ。
 もちろん、すべての人間が両者のやり方を支持していたわけではなかった。軍首脳部からも、事前警告なしに日本に原爆を投下することへの反対の声があかっていたという。
 ジャーナリストのフィリップ・ノビーレは著書『葬られた原爆展』の中で、1950年にウィリアム・レーヒ海軍提督が「暗黒時代の野蛮人と同じ倫理的基準」を採用したとして原爆投下を激しく非難したことを伝えている。のちに大統領となるアイゼンハワー陸軍元帥も1945年7月のポツダム会談中、トルーマン大統領に、原爆使用反対の意を伝えていたようだ。
 また、アメリカ政府に原爆開発を勧めた科学者レオ・シラードも、反対派に転向したという。元来、平和主義者たったシラードにとって、原爆を防御ではなく攻撃に使うことは道徳的に耐えがたいことだったのだ。原爆投下の2カ月前、シラードは日本への原爆使用をやめるようにトルーマンに手紙を書いたが、バーンズによってひねりつぶされてしまう。さらに、150人の反対著名を集め、請願書とともに大統領に届けようとしたが、たらい回しにされてトルーマンのもとには届かなかった。
 さらに原爆投下の49日前、対日戦略会議において陸軍次官補ジョン・マックロイは、人道的な立場から、日本への事前警告をするべきだと訴えたが、トルーマンはこれを却下。海軍次官ラルフ・バードも、警告なしの投下はフェアではないと抗議したが、バーンズら強硬派の意見にはね返されてしまったという。
 結局、反対運動が大きな勢力へと発展することはなかった。人類の運命を左右する重大な決断が、十分な時間をかけて議論されることもなく、わずかな人間によって下されたのである。しかも、トルーマンは日記に「女性や子供が目標にならないように命じた」とおよそ不可能なことを書きながら、同時に原爆を、その破壊力をはっきり示せる目標に対して使うべきだとする暫定委員会の勧告を受け入れていたのだ。
 
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