歴史検証ファイル 
世界初の核攻撃
“原爆”投下の真相
DeAGOSTINI
 

 アメリカはなぜ原爆をつくったのか?

【通説】

 1939年10月11日、ルーズベルト大統領のもとに、著名なドイツの理論物理学者アルバート・アインシュタインからの書簡が届いた。そこには、アメリカは早急に原爆開発をはじめるべきだと進言されていた。ヒトラー率いるドイツがノルウェーに実験工場を建て、原爆研究をはじめたことを知ったアインシュタインは、もしナチスが人類初の原爆を完成させてしまったら大変なことになるという危機感を抱いたのだった。
 原爆は、第二次世界大戦勃発後まもなく、ふたりのドイツ生まれの物理学者によってイギリスで初めて構想された。イギリス政府はすぐにその重要性に気づき、原爆の基礎研究を推進するために「モード委員会」を組織した。
 1941年、モード委員会の報告がアメリカに伝達されると、ルーズベルト大統領はイギリスのチャーチル首相と協約を結び、米英の協力のもとに原爆開発を行なうことを決定。翌年6月17日、科学研究開発庁長官バネバー・ブッシュから原爆製造の成功の可能性があるとの報告を受けたルーズベルトは、原爆開発のための国家プロジェクトを立ち上げ、研究開発を本格的にスタートさせた。その本部がニューヨークのマンハッタンに置かれたことから、プロジェクトは暗号名「マンハッタン計画」とよばれる。その第一の目的は、ナチスの原爆開発に先んじるというものであった。

【検証】

 1943年4月、マンハッタン計画を実現させるために、ニューメキシコ州ロスアラモスに研究所が設立された。所長に命じられたのは、物理学者ジョン・ロバート・オッペンハイマーである。当時、ロスアラモスは、地図にさえ載っていない陸の孤島であり、秘密裏に開発を進めるためには絶好の場所だった。陸軍省の直轄となったマンハッタン計画は、責任者レズリー・R・グローブズ将軍のもとに約20万人が秘密工場や研究所で働いていたという壮大なものだった。その機密保持は厳密をきわめており、関係者たちは個人名を消され、与えられた番号で呼び合っていた。たとえば、オッペンハイマー所長は「47」であり、研究所で働いていても自分が原爆開発に携わっていることさえ知らない者もいたと伝えられる。
 一方、ドイツでは状況が変化していた。
 1941年12月、ドイツ軍はモスクワ攻防戦において激しい雪と寒さに悩まされ、ソ連軍の反撃に耐えきれず敗北した。その影響を受けて、莫大な費用を必要とする原爆開発計画を諦めざるをえなくなり、翌1942年6月には事実上、原爆製造を断念したのだった。
 実はドイツの原爆開発が進展しなかった理由には、もうひとつの事情があった。それを物語るのは、『ヒロシマあの時、原爆投下は止められた』(TBSテレビ『ヒロシマ』制作スタッフ編)におさめられた物理学史研究家のヘルムート・レッヘンベルクの次のような言葉である。「ドイツでは国がこの研究自体をあまり好まなかったことから、原爆に対する援助も少なかったのです。なぜなら原爆開発はドイツがきらっていたユダヤ的物理学だったからです」
 ドイツが原爆開発を諦めたことで、アメリカはマンハッタン計画を続行する根拠を失うことになった。しかし、アメリカはマンハッタン計画を止めなかった。何しろ、この時点で述べ13万人を投入していた原爆開発をプロジェクトにかけられた費用は20億ドルともいわれており、ドイツに先んじるという大義が失われてしまったとはいえ、今さら中止することはできなかったのだ。
 
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