|
||||
マンハッタン計画の後遺症 原爆投下は、人命を救うための最後の手段として仕方なくなされたものではなかった。それを何よりも示すのは、原爆が2発、それも異なるタイプが投下されたという事実である。アメリカは、巨費を投入した巨大プロジェクトの成果を最大限に活かすために、原爆を投下したのである.し アメリカが投下した2発の原爆による被害をまとめた『広島・長崎の原爆被害』によれば、1950年10月までの原爆による死亡者は、広島約20万人、長崎約14万人とされ、放射能による後遺症によって、貧血、白血病、白内障、がん、内臓・四肢の機能障害などが被爆者たちを苦しめ続け、現在もなお死に至らしめているのだ。 戦争という狂気の中で行なわれたものとはいえ、これを正当化することは誰にもできないことであろう。 ニューメキシコ州ロスアラモスの研究所で原爆を製造し、史上初の実験に成功。その威力を目の当りにしたオッペンハイマー所長は「われは死神なり、世界の破壊者なり」と語ったという。戦後「原爆の父」と称されたオッペンハイマーは、1949年頃からアメリカが進めようとした水爆開発計画に反対。マンハッタン計画以来、原子力政策の中心にあり続けた彼の影響力は大きく、それが他の研究者に波及することを恐れた政府は、オッペンハイマーを「共産国のスパイ」であると喧伝した。そして、当時は赤狩り旋風が吹き荒れていたこともあり、彼は第一線から追放されてしまったのである。 |
||||
← [BACK] [NEXT]→ | ||||
[TOP] | ||||