教科書が教えない歴史
藤岡信勝/自由主義史観研究会 
産経新聞社
 

 迫害された日本人の移民たち

 明治時代に入ると、日本からアメリカに渡り、そこで職を求めて働く人が少しずつふえていきました。その数は日露戦争が終わるころにはアメリカ西海岸で数万人になっていました。
 日本人の働き口は鉄道建設工事、農園、鉱山などでした。もちまえの勤勉さでよく働き、お金をため、小さな土地を手に入れる人もいました。日本人の得た土地はもっとも荒れたところでしたが、数年後にはそこからもっとも立派な農産物が収穫されました。なかには、商店を経営する人もあらわれました。
 ところが、こうした日本人の努力はアメリカ社会には歓迎されず、かえってにくしみを買いました。一番反発したのは下づみの白人労働者でした。彼らが1日2ドルでしていた仕事を日本人は1日半ドルで、しかももっと立派にやりこなしていたからです。しかし雇い主は日本人にそれ以上の賃金を払おうとはしなかったのです。日本人は石をぶつけられ、さまざまな迫害を受けました。排日運動が始まったのです。
 1906年4月18日、サンフランシスコに大地震がおきました。震災のあとかたづけも終わらない11月11日、サンフランシスコ市の学務当局は、同市内のわずか93人の日本人児童を、震災で学校のスペースがせまくなったという理由で、市のはずれにある東洋人学校に転校させると決定しました。
 日本の上野領事は、東洋人学校の現地を見に出かけて驚きました。荒れはてた焦土の中に孤立して立つ学校の周辺には人家もありません。とても小学生が通えるようなところではなかったのです(若槻泰雄『排日の歴史』中公新書)。
 この問題は、セオドア・ルーズベルト大統領の仲介でやっと解決しますが、排日の動きはその後も続きました。そのころから日米戦争を予測する本もさかんに出版されるようになりました。ルーズベルトは、友人あての手紙に書きました。「私は戦争になるとは思っていない。しかし日本人のなかにも、われわれのところにいるのと同じぐらいの割合で、もののわからない愛国主義者のバカどもがいるだろう」
 しかし、日本側ではまだ日露戦争の仲介をしてくれたアメリカへの信頼をうしなってはいませんでした。日本人の中に反米感情が生まれるのは、もっとあとのことなのです。
 1922年、カリフォルニア州で日本人の土地をとり上げる法律が成立しました。戦後首相となる石橋湛山は『東洋経済新報』という雑誌に社説を書き、もし日本の領土である台湾にアメリカ人が大挙渡来し、多くの土地を所有し耕作し、教会や学校を建て、自国の政治を謳歌すれば、日本人の間に排米運動が起こらないとは限らない、という例を出して日本人に冷静な対応をよびかけました。
 (藤岡信勝)
 
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