教科書が教えない歴史
藤岡信勝/自由主義史観研究会 
産経新聞社
 

 日本にも危機感与えたアヘン戦争

 中国に香港という都市があるのを知っていますね。香港はイギリスの植民地でしたが、1997年に中国に返還されました。なぜ、香港はイギリスの植民地になったのでしょうか。そのわけを知るには、中国(当時の清国)とイギリスとの間に起きたアヘン戦争について知らなくてはなりません。
 当時、中国は広州港でしか貿易を認めていませんでした。鎖国をしていたのです。
 さて、貿易相手国の一つイギリスは「中国から大量に輸入する茶の代金として、多額の銀の流出になやみ、インド産の麻薬であるアヘンを密貿易で中国に売り込んだ」(中学校社会科教科書より)のでした。
 アヘンは麻薬ですから喫煙者は中毒になり、大量のアヘンを購入することになります。この方法でイギリスは中国に払った銀のとりもどしに成功します。しかし、アヘン患者の蔓延を国家の危機と考えた中国は、林則徐という大臣にアヘン密輸を厳禁するように命じ、約二万箱のアヘンを廃棄させました。これにイギリスが反発し、勃発したのがアヘン戦争だったのです。
 戦争は兵器に優れたイギリスが艦隊を使って上海などの都市を次々と攻め落として圧勝し、講和条約(南京条約)で香港は植民地になったわけです。
 アヘン戦争が起きたとき、隣国の日本は徳川幕府の時代でした。するとみなさんは、幕府は鎖国をしていたからアヘン戦争という重大事を知らなかったに違いないと思うでしょう。
 しかし、幕府は中国のアヘン政策やイギリス優位の戦況、さらに香港割譲の事実もことごとく知っていました。主な情報源は、長崎・出島のオランダ商館長が将軍に送った『オランダ風説書』という世界情勢の報告書でした。オランダは、対日貿易独占のために、競争相手のイギリスの情報を日本に提供しておきたかったのです。
 戦争の情報は、幕府以外の人々にも早くから知れ渡り、大きな関心を引き起こしました。儒学者斎藤竹堂は1843年に『鴉片(あへん)始末』という本を著しているほどです。
 さて、アヘン戦争後、中国は香港以外でも列強の侵略を許し植民地と化していきます。そのありさまを現地でつぶさに見てきた日本人がいました。倒幕の志士高杉晋作たちでした。
 高杉は上海の見聞記録で「中国人は殆どが外国人の召使のようだ。英仏の人が街を歩けば、中国人は傍によって道を譲る。上海は中国の領土だが英仏の植民地ともいえる」と記し、わが国も今のままでは列強の植民地になってしまうという強い危機感を持ちました。他の青年たちも同様でした。この思いが明治維新へと発展していきます。隋・唐以来日本の「先生」だった中国は、皮肉にもアヘン戦争でも欧米列強の世界戦略の脅威と「明治維新」の必要性を教えてくれたわけです。
  (本宮武憲)
 
← [BACK]          [NEXT]→
[TOP]