GHQ焚書図書開封1
米占領軍に消された戦前の日本 
西尾幹二 徳間文庫カレッジ 

 戦闘は終わったが戦争は続いていた

 私たち日本人が従順になった、あるいは敗北感情に打ちのめされた、その理由についての通俗心理学の逆もありうるということです。それは何かというと――形の上では敗北したけれども、私たち日本人は心の底では「不服従」の感情をずーっと懐き続けていたのではないかということです。「不服従」、すなわち私たちは負けちやいないよ、という思いです。表面的には負けたかもしれないけれど、その結果には服従しないという感情です。
 じつはそういう気持ちが日本人にはあったのです。そのことは本書で今までの叙述にも取り上げてきました。
 あの熱狂が、あの烈しい戦争への意欲が、林のごとくアッという間に静かになり、湖のごとく冷たくなってしまった。それを見て占領軍はびっくりし、驚き、かつ怪しんだことは前に言いました。この静粛さは、日本人がやがて復讐に起ち上がる臥薪嘗胆の覚悟の現れなのではないか。この国内的冷静さは日本人が敗北の認識を十分にもっていないからではないか。そんなふうに不気味に感じた。
 そこで彼らは手厳しい観察の目を日本人の心の奥に向けた。私たち日本人は、表向きは自分の感情をごまかしていたにもかかわらず、じつは心の奥には不服従の感情がひそんでいた。私たちの平静さの奥にあった、歴史の審判に対する不服従の心理を占領軍は見抜いていたのではないか。それをひそかに観察していた欧米諸国は「それは許さないぞ」といった。
 戦闘は終わったけれど戦争は続いていた。そういうことを、私はいま申し上げているわけであります。
 昭和20年9月に外国で出た記事によれば、連合国は声を大にして「日本国民が敗戦を事実として真摯に認識することに欠けている」という指摘をしています。たとえば日本のある将軍は、降伏の交渉に臨んで佩剣(はいけん)を許されなかったことに怒りの感情を露わにして、危うく交渉を不成立に終わらせようとしたそうです。日露戦争の後、乃木将軍がステッセル将軍に佩剣を許した水師営の会見の故事を思い出したのかもしれませんが、しかし連合国がそんなことを許すはずがない。つまり連合国は日本軍がいまだに深い認識をもっていない敗戦の事実を認めていない、という疑いを非常に強く持つようになります。
 じっさい、日本は戦争に負けたのではない、科学の力に負けたのだというのが、私たちが子供のときに習い、認識していたことであります。戦争に負けたのではなく原子爆弾に負けたのだと、日本人はみな思っていました。
 日本人の側にはひそかに不服従の感情があったのは事実です。それはいまの私の中にもあるし、いまの日本人の中にもじつはある。そういう感情があるから、60年経って、いやこの10年、20年の間に反米感情もだんだん強くなってきた。
 よろしいでしょうか。アメリカ軍は日本を解放したのではありません。私には、解放されたという自覚はありません。占領されたという意識しかありません。力において敗れたけれども、正義において敗れたのではないという意識がはっきりしているからです。そういう意識は私たちの心の奥に潜ってずっといままで続いています。だからこそ、戦後を冷静かつ平静に生きつづけることができたのではないでしょうか。
 つまり、戦闘は終わったけれど戦争は続いている。
 昭和20年8月29日ですから戦闘が終わって2週間経った時点で、当時の『讀賣報知』の社説が、戦争に負けたことが納得できないと書いています。

 固(もと)より大詔(たいしょう)を拜して謹まざる國民は一人としてないが、そんな筈はないといふ気持でこの敗戦の事實を受取る態度は、今日に至るもなほ跡を絶つてはゐないのである。

「そんな筈はない」というのは、まだ戦力に余裕があるという意味になりますから、いまから見るとちょっと滑稽ではありますが、終戦の日から2週間経ってなお新聞は公然と戦意を表明しているのです。
 そして9月5日、束久邇宮首相は施政方針演説で、戦争終結の決断はひとえに天皇陛下の大御心によるものであって国民は戦争努力の足りなかったことを陛下にお詫びしなければならない、という意味のことを語って、ここでも戦意の継続を述べています。
 占領軍からすると、これは許しがたいということになります。なんとかそうした戦意を叩き潰さなければならない。その表れが本書が取り上げた焚書であり、『閉された言語空間』で江藤さんが指摘した米軍による検閲、言論統制です。
 しかし当時は、日本が戦争をしたのは悪かったという人は誰ひとりいなかったわけですから、「戦争責任」などということを口にした人はひとりもいません。もしそんなことをいったら周囲の人は引っくり返ってびっくりしたことでしょう。口から泡を吹いて倒れたに違いない。戦争責任という言葉は日本の国内から出てきた考え方ではなくて、旧敵国からプロパガンダの言葉として津波のように押し寄せてきたものです。そうして日本人に罪悪感を植え付けようとした。
 何とも説明のできない戦後日本の平静さに不気味なものを感じた占領軍は、その正体をなんとかして暴き、そして日本が二度と起ち上がれないようにしてしまわなければならなかった。生命力を根こそぎ奪い取ってしまわなければならなかった。これが焚書という行為にも及んでいて、ついに今日に至るまで7千余点、あるいはそれ以上の数の周辺図書が日の目を見ることができないままになっているのです。というより、そうした書物が日本人の心から掻き消されてしまった。
 前にも申し上げましたように、いま私たちがこれらの本を見ようと思えば、国立国会図書館である程度読めます。やろうと思えば緻密に研究することもできます。しかし本が目の前にあるわけではない。研究者が自由に手に取って読めるわけではない。本の貸し出しも自由ではなく、コピーも限定つきです。焚書図書の研究は容易なことではありません。
 そこで私は私に裁量を任された焚書の内容を少しずつ表に出して、こういう書物があるということ、それが60年間も放置されてきたんですよ、ということをこれからお話ししたい。そして、本の中に記されている当時の日本人の心、当時の日本人が世界をどう見ていたかということをもう一度甦らせたい。
 この私の仕事は何巻になるか分かりません。さしあたり2冊目はすでに用意され、刊行の準備もできています。ここで終わるということのない課題なのです。
 
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