偉大なる探検家コロンブスの蛮行

 コロンブスの到着後、カリブ海諸島でなにがあったかがわかるのは、バルトロメー・デ・ラス・カサスのおかげだ。彼はキリスト教の司祭で、若いときにはスペイン人のキューバ征服に力を貸した。その後しばらく農園を所有し、インディアンを奴隷として使っていたが、やがて農園を手放して、スペイン人の残酷な行為を非難するようになる。
 ラス・カサスはコロンブスの航海日誌を引き写し、また『インディアス史』もあらわした。その本で彼はインディアンの社会や慣習を描き、さらには、スペイン人が彼らをいかに扱ったかについても記している。
〈赤ん坊は生まれても、すぐに死んだ。過労と飢えのため、母親が乳を出せなかったからだ。そのため、わたしがキューバにいた3ヵ月間で、7,000人の赤ん坊が死亡した。絶望のあまり、自分の子どもをおぼれ死にさせる母親までいた。こうして夫は鉱山で死に、妻は過労で死に、赤ん坊は乳がないために死んでいった。この目でわたしは、人間のすることとも思えない所業を見てきたが、それを記しながらもいまも震えが止まらない。〉
 こうして、南北アメリカ大陸でのヨーロッパ人の歴史がはじまった。それは、征服と奴隷制、そして死の歴史だ。ところが、アメリカ合衆国の子どもたちに与えられている歴史の本には、長いあいだちがうことが書かれていた。英雄が活躍する冒険物語だけが語られ、虐殺には触れられていなかったのだ。しかしいまようやく、若い世代への歴史の教え方が変わろうとしている。
 コロンブスとインディアンの話は、歴史がいかにして書かれるかについて、あることを教えてくれる。
 サミュエル・エリオット・モリソンは、コロンブス研究でもっとも有名な歴史学者の一人だ。モリソンはみずからコロンブスの航路をたどり、大西洋を横断した。1954年には『大航海者コロンブス』という、一般向けの本も出版した。そのなかで彼は、コロンブスや、あとに続くヨーロッパ人による残虐な行為のせいで、インディアンの〈完全な大量殺戮〉が引き起こされた、と述べている。ジェノサイドとは、とても強い言葉だ。ある民族的、または文化的集団の全員を計画的に殺害する、という恐ろしい犯罪の呼び名である。
 モリソンはコロンブスに関してうそはついていないし、大量殺害の話もはぶいていない。しかし、彼はその事実に触れはしてもさっとすませて、別の話へ移っている。ジェノサイドという事実を、ほかの膨大な情報のなかに埋もれさせ、全体的に考えれば、大量殺害はさほど重大なことではなかった、といっているように思われるのだ。ジェノサイドを話の一部分としてさらりと流すことによって、その言葉の強烈さを弱め、わたしたちがコロンブスに対してちがった感想をいだかないようにしている。本の最後でモリソンは、コロンブスは偉大な人物だ、と持論を結んでいる。そして、コロンブスのもっとも重要な歴史的意義は、彼の航海術にあったとしているのだ。
 歴史家は数ある事実のなかから、どれを自分の研究課題とし、どれを省略し、どれを話の中心にすえるかを選択して決定しなければならない。歴史家の考え方や信念は、その歴史家の歴史の描き方に示される。そして、いかに歴史が描かれるかによって、それを読む人の考えや信念も形づくられうるのだ。だとすれば、モリソンのような歴史の描き方――コロンブスやあとに続く人々は偉大な航海者であり発見家である、と見るだけで、彼らの犯したジェノサイドにはほとんど触れない――によると、コロンブスたちは正しかったように思われてくる。
 人は歴史について書いたり読んだりするとき、征服や大量殺害のような残虐なことも、進歩のためにはしかたがなかった、と思いがちだ。それは、多くの人々が、歴史とは、政府や征服者、指導者たちの物語だと考えているせいである。そうした視点から過去をふり返ると、歴史とは、ある国になにが起きたか、の話になるだろう。だから、国王や大統領、将軍が登場人物になるのだ。しかし、工場で働く者や農民、有色人種、女性や子どもはどうなのだろう?彼らもまた、歴史の担い手ではないだろうか?
 どの国の歴史物語にも、征服する者とされる者、主人と奴隷、権力をもつ人々ともたざる人々のあいだの、はげしい対立がふくまれている。歴史を書くということは、そのどちらかの側に立つということだ。わたしはたとえば、アラワク族の立場から、アメリカ発見を語りたいと思う。たとえば黒人奴隷の視点に立って、アメリカ合衆国憲法について述べ、ニューヨーク・シティに住むアイルランド人の目で、南北戦争を見てみたいと思うのだ。
 あらたな可能性を未来にさぐろうというときには歴史が助けになってくれる、とわたしは信じている。歴史は、隠されていた過去のある部分、たとえば人々が権力者に抵抗し、あるいは団結したときの物語を明らかにして、ヒントを与えてくれるはずだ。わたしたちの未来は、えんえんと続く戦争史のなかにではなく、思いやりと勇気にあふれた過去の出来事のなかに見いだされるにちがいない。これが、アメリカ合衆国の歴史への、わたしの接近方法である。そしてそれは、コロンブスとアラワク族との出会いからはじまるのだ。
 
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