虐殺されたインディアンたち

 コロンブスとアラワク族のあいだに起きた悲劇は、その後もいく度となくくり返される。スペイン人の征服者エルナン・コルテスとフランシスコ・ピサロは、メキシコのアステカ文明と南アメリカのインカ文明を滅ぼした。そして、イギリス人入植者がバージニアとマサチューセッツにたどり着いたとき、彼らもまた、出会ったインディアンに同じことをしたのだ。
 1607年、イギリス人は、アメリカ大陸における最初の永続的な植民地として、バージニアにジェームズタウンを建設した。この町は、ポーハタンと呼ばれるインディアンの首長が治める領地の中に築かれた。ポーハタンは、イギリス人が自分の土地に入植するのを見守っていただけで、攻撃しなかった。しかし、ジェームズタウンの創設者の一人ジョン・スミスとは話し合いの場をもった。伝えられているポーハタンの申し立ては、彼の言葉そのままではないだろうが、のちの時代に別のインディアンが語ったり、書き残したりしたこととよく似ている。だから次の言葉は、白人が自分の領土に入ってくるのを見たときのポーハタンの思いとして、読むことができるだろう。
〈わたしは、自分の国のだれよりも、平和と戦争のちがいをよく知っている。なぜあなたたちは、愛によって静かにえられるものを、力ずくで奪いとろうとするのか? あなたたちに食べる物を提供しているわれわれを、なぜ滅ぼそうとするのか? 戦いによってなにがえられるというのだろう? なぜあなたたちは、われわれをねたむのか? われわれは武装していないし、あなたたちが友情をもって接してくれるなら、望むものをさし出したいと思っている。そのうえ、あなたたちイギリス人から逃げ、森の中で寒さに震えて横たわり、かたい木の実や根のようなみじめなものを口にし、食べることも眠ることもままならないほど追い回されるよりも、うまい肉を食べ、安らかに眠り、妻や子どもたちと穏やかに暮らして、あなたたちイギリス人と笑って楽しく過ごし、銅や手斧を交換するほうがはるかにましだ、ということがわからないほど無知ではないのだ。〉
 1609年から翌年にかけての冬、ジェームズタウンのイギリス人は、彼らが〈飢餓期〉と呼んだ、深刻な食料不足に見舞われた。彼らは木の実とベリー類を求めて森をさまよい、墓を掘り起こして死体をくらった。入植者500人のうち、生き残ったのはわずか60人だった。
 入植者のなかには、インディアンのもとへ駆けこむ者もいた。少なくともそこでは、食べ物にありつけたのだ。1610年の夏、植民地総督がポーハタンに、彼らを送り返すように求めた。ポーハタンが断ると、イギリス人たちはインディアン居住地の一つを滅ぼした。その部族の妻をさらい、子どもたちを海につき落として銃で撃ってから、刀剣で妻を刺殺したのだ。
 12年後の1622年、インディアンはふえつづけるイギリス人植民地を排除しようと、347人の男女子どもを虐殺した。このときから、インディアンとイギリス人の全面戦争がはじまる。イギリス人はインディアンを奴隷として使うことも、彼らと共存していくこともできず、滅亡させようと決心した。
 一方、もっと北のニューイングランドには、巡礼始祖(メイフラワー号で移住したイギリスの清教徒たち)が入植した。ジェームズタウンの場合と同じく、彼らもまたインディアンの領土へ入っていった。コネティカット南部とロードアイランドに住んでいたのは、ピクォート族たった。入植者たちは彼らの土地がほしいと思った。1637年、ピクォート族との戦いがはじまり、互いに多数の相手を殺すことになった。イギリス人は、かつてコルテスがメキシコで使ったのと同し戦法をとった。敵を恐怖におとしいれるため、戦士ではないインディアンを攻撃したのだ。彼らは、インディアンの住みかである“ウィグワム”と呼ばれる半球形の小屋に
火をはなった。炎からのがれようと飛び出してきたインディアンは、刀剣でばらばらに切りきざまれた。
 コロンブスがアメリカ大陸へ到達したとき、現在のメキシコより北には、1,000万人のインディアンが住んでいた。ヨーロッパ人がこの地に入植しはじめてから、彼らの数はへりつづけ、ついには100万人以下になった。きわめて多数のインディアンが、白人のもちこんだ疫病にかかって死んだのだ。
 ところで、インディアンとは何者だったのだろう? 贈り物を手に、浜までコロンブス一行を迎えに出てきた者たち、あるいは、バージニアやマサチューセッツへはじめて入ってきた白人入植者を、木陰から見つめていたのは、いかなる人間だったのだろうか?
 コロンブス以前、南北アメリカ大陸には、7,500万人のインディアンが暮らしていた。彼らは何百もの異なった部族文化と、約2,000もの独自の言語をもっていた。多くの部族は狩りをし、食物を集めながら移動する遊牧民だった。なかにはすぐれた農耕民として、共同体をつくって定住している者もいた。北東部の部族でもっとも強力だったイロクォイ族のあいだでは、土地は個人のものではなく、共同体全体のものとされていた。イロクォイ族の人々は協力して農耕や狩猟を行い、食べ物も分かち合っていた。彼らの社会では女性は地位が高く、尊重されていた。女もさまざまな権限をもち、子どもたちは自立するように育てられた。そして、イロクォイ族と同じように暮らしていた部族は、ほかにもたくさんあったのである。
 つまり、コロンブスやあとに続くヨーロッパ人たちは、無人の荒野へきたのではなかった。場所によっては、ヨーロッパと同じくらい人口密度の高い世界へやってきたのだ。そのうえインディアンは、独自の歴史、おきて、詩をもち、ヨーロッパ人よりずっと平等に暮らしていた。はたして“進歩”とは、彼らの社会を滅ぼす理由たりえたのだろうか?
 インディアンの運命は、歴史とは、ヨーロッパからの征服者や統治者の話にとどまらない、ということをわたしたちに気づかせてくれる。
 
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