日本国紀
百田尚樹・著 幻冬舎 

 文永の役

 同じ頃、中国大陸でも歴史が大きく動いていた。
 12世紀の終わりに、チンギス・ハンに率いられたモンゴル民族が、近隣の諸民族を吸収していった。モンゴル高原にいた遊牧民の一部族が、突如として巨大な力を持ったのである。
 モンゴル人は金や西夏(せいか)といった遊牧民族の国を滅ぼすと、高麗(こうらい)、インド、ロシア、アフガニスタン、ペルシャの地を手中に収めた。最終的には宋も滅ぼし、ユーラシア大陸のほとんどを支配する大帝国を築いたポーランドの平原ではドイツ・ポーランド連合軍を完膚なきまでに撃破して、ヨーロッパの国々を震撼させた(モンゴル軍はヨーロッパへ本格的には攻め込まなかった)。その版図(はんと)は歴史上最大で、驚くべきことに、当時の世界人口の半数以上を統治するものだった。
 この大帝国は後にいくつかに分かれるが、中国大陸を支配した元帝国の初代皇帝フビライ・ハン(チンギス・ハンの孫)は、日本をも服属させようと考えた。文永5年(1268)、高麗の使者を介して武力制圧をほのめかした国書を日本に送ってきたのだ。その国書でフビライは「大蒙古国皇帝」と名乗っている。
 執権だった北条政村は、この国難に際し、鎌倉武士団の団結を高めるため、62歳である自身は引退し、北条得宗家(本家嫡流)の時宗に執権の座を譲った。驚くべきことに、この時、時宗は満16歳であった。
 当時、外交の権限を持っていた朝廷は、蒙古からの国書にどう対応していいかわからず、おろおろするばかりだったが、北条時宗は、蒙古とは交渉しないという断固たる決定を下した。蒙古はその後、何度も使節を寄越したが、時宗は返書を出そうとする朝廷を抑えて、黙殺する態度を貫いた。このことを国際情勢と外交に無知だったせいだと批判めいた解釈をする歴史学者がいるが、無礼な手紙に対して返書をしないのは当然である。
 蒙古がいかに強大な帝国であるかという情報を、南宋と貿易していた鎌倉幕府が知らないはずはない。それでも、時宗は蒙古の恫喝に萎縮することはなかったのだ。想像だが、彼は日本国を預かる執権として屈辱的な外交はできないという誇りを持っていたのだろう。日本を守るためには、大帝国との一戦もやむを得ないと考えていた。時宗は、御家人たちに防御態勢を取れと命じて、蒙古軍の襲来に備える。
 最初の国書が送られてきてから6年後の文永11年(1274)10月5日(新暦では11月11日)、フビライはついに日本に軍隊を送り込んできた。蒙古は1271年に国号を「元」と改めていたが、本書では蒙古と書く。蒙古軍は7百〜9百艘の軍船に、水夫を含む4万人の兵士を乗せて襲ってきた。内訳は蒙古人2万人と、蒙古に征服されていた高麗人1万人だった(他に1万人の水夫がいた)。
 蒙古・高麗軍はまず対馬を襲い、多くの島民を虐殺した。次に壱岐を襲い、同じく多くの島民を虐殺した。この時、蒙古軍は捕虜とした島の女性たちの掌に穴を空け、そこに縄を通して船べりに吊り下げた。おそらく迎撃する日本の兵を恐れさせるためであったと考えられる。
 蒙古軍は2つの島を侵した後、博多に上陸した。
 未曽有の国難に際し、九州の御家人らは命を懸けて立ち向かった。蒙古・高麗軍の独特の集団戦法と、毒矢や「てつはう」(火薬を使った爆弾のようなもの)に苦しめられながらも、御家人らは懸命に戦い、敵軍に対してかなりの損害を与えた。両軍の戦闘の優劣については、日本側、蒙古側、高麗側の様々な資料で記述が異なっており、実態がよくわからない。
 10月20日(新暦11月26日)の夜、蒙古・高麗軍の軍船は一斉に引き上げた。彼らの目的は威力偵察であったという説もあるが、わずか2週間で引き上げた理由は、日本軍による攻撃で多大の損害を蒙ったためとも考えられている。鎌倉武士の決死の戦いが蒙古軍を撤退させたのだ。
 蒙古軍の船は高麗に戻る途中、多くが沈み、無事に帰国できたのはわずか1万7千人ほどだったと伝えられる。難破した蒙古・高麗軍の船百艘ほどが九州に漂着したという記録もある。
 かつては蒙古軍に大きな被害を与えたのは台風とされていたが、新暦の11月終わりは大型台風が来る季節ではなく、またその記録もなく、現代では「台風説」は否定されている。11
月から12月にかけての玄界灘は荒れるため、元軍は帰還中に大きな時化に巻き込まれた可能性が高いと考えられる。
 この戦いは「文永の役」と呼ばれる。
 
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