日本国紀
百田尚樹・著 幻冬舎 

 成熟の時代へ(国風文化の開花)

 東北を支配下に置いてから百年ほどは日本史に大きな事件は起こっていない。古代からダイナミックに動いてきた歴史が、いったんその動きを止めたかのようだ。私には、日本が誕生から成長にかけての波瀾に富んだ時代を終え、成熟の時を迎えたかのようにも見える。
 それまで頻繁に行なわれていた遷都も、平安京に移してからはぴたりとやんだ(その後、平清盛による福原京遷都や南北朝時代の吉野などの例外はあるが、基本的には、明治維新まで千年以上遷都されなかった)。
 平安時代の大きな出来事といえば、何といっても遣唐使の廃止である。
 600年に遣隋使が送られて以来、250年以上、日本はずっと中国の文化や制度を取り入れてきたが、平安時代に入った頃から、その回数は激減した。平城京時代は命懸けの航海ではあったものの、中国の進んだ文化を取り入れたいという目的があったが、平安時代には日本も優れた文化国家となり、危険を冒してまで遣唐使を送る必要がなくなっていたからだ。寛平6年(894)、半世紀以上ぶりに遣唐使を送る計画が立てられたが、学者でもあり蔵人頭(くろうどのとう)という政治の重職にもあった菅原道真(みちざね)が廃止を進言し、受け入れられた。
 私は、この遣唐使の廃止を日本が中国の文化を必要としないという自信の表われであったと見ている。もはや学ぶべきものはすべて学んだ、という意識があったに違いない。そして遣唐使が廃止されて以降、真に日本らしい傑出した文化が花開くことになる。
 その一番は仮名文字の発明である。それまでは文章を書く際は、漢文を使うか、そうでない場合もすべての文字に漢字を使用していた。漢字を表音文字として使っていたのだ。その典型が『万葉集』である。しかしそれらは音や訓が入り混じり、しかも統一された決まりもなく、一般に普及させるには非常に不便なものであった。そこで編み出されたのが仮名である。
 最初に仮名を使用したのは9世紀初めの僧侶たちだった。彼らは経典などの難読漢字の横に、読みやすいように省略文字でふりがなをふった。たとえば、江→エ、止→ト、多→タ、という具合だ。これが片仮名の由来である。片仮名はその後も漢文の読みを表わす補助的な文字として使われた。その後、漢字の草書体から平仮名が編み出された。平仮名は片仮名に比べ優美な曲線を持っていたことから、宮中で働く女官たちが好んで使った。そのため「女手(おんなで)」とも呼ばれた。この平仮名の発明は日本語における表現力を飛躍的に発展させた。
 平安京の女官たちは高い教養を持っていたが、彼女たちはそれを競い合うかのように、平仮名を使って様々な著作を生み出した。清少納言が書いた随筆『枕草子』、紫式部が書いた長編小説『源氏物語』、藤原道綱母(みちつなのはは)が書いた日記文学『蜻蛉(かげろう)日記』、菅原孝標女(たかすえのむすめ)が書いた『更級(さらしな)日記』などは、千年後の現代でも読まれている名作である。
 これらの文学作品は平仮名の発明なくしては生まれなかった。「やまとことば」といわれる繊細な言葉は、情緒豊かな表現の世界を広げた。『源氏物語』はその代表作であるが、現代でも世界の20力国以上で翻訳され読まれている。私は、平安時代の文学が女性たちによって紡がれたことを、本当に素晴らしいことであると思う。
 日本以外の世界を見渡せば、女性が書物を著わすのは近代になってからである。それ以前の中国やヨーロッパでは、女性は出産や子育てや男性の快楽のための存在であり、教養や知識を持つどころか、文字を読める人さえ稀であった。イスラム原理主義の強い国では、21世紀の現代でも女性に教育が与えられていない。しかし日本においては古代からすでに女性が和歌を詠み、それらは『万葉集』にも数多く載せられている。文化的先進国でも、これほど女性の地位が高い国は他にない。また『源氏物語』を読めば、当時の宮中の女性たちが男性に支配される立場ではなく、恋愛に関しても対等であったことがわかる。
 話を平仮名に戻すと、小中華を自負する朝鮮が、平仮名にあたる「ハングル」を持ったのは16世紀である。しかし、当時の学者だちから嫌われ、ほとんど普及しなかった(公文書はすべて漢文)。ハングルを普及させたのは、20世紀に大韓帝国を併合した日本である。戦後、韓国はナショナリズムが昂じた末に、固有名詞以外では漢字をほとんど使わなくなり、書籍はすべてハングルで綴られている。日本語でいえば、すべて平仮名だけで書かれた文章である。
 
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