日本国紀
百田尚樹・著 幻冬舎 

 聖徳太子

 推古天皇を摂政として補佐したのが聖徳太子である。もっとも聖徳太子という名前は死後の
謚(おくりな)であり、生前は廐戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていた。近年、学校の教科書では、厩戸王と表記しようという流れになっているようだが、ここでは昔ながらに聖徳太子と表記する。生前の名前の表記を正しいとするなら、現在、謚号で表記している歴代天皇もすべてそうしなければならなくなる。
 聖徳太子は大伯父にあたる蘇我馬子とともに政治の実権を握る。太子は大陸から仏教を入れ、日本全国に広めた。
 この頃、大陸には強大な軍事力を誇る隋帝国が誕生していた。朝鮮半島の百済、新羅、高句麗は隋から冊封(さくほう)を受けた。「冊封」とは政治的に従属するという意味で、支配はされないが、隋の臣下になるということである。冊封国の首長は隋の皇帝から「王」に任ぜられる。
 新羅に軍を送った同じ600年に、聖徳太子は、新羅の宗主国である隋との関係を良好に保つため、遣隋使を送った。このあたりはかなりしたたかな外交感覚といえる。日本が中国との交渉に臨むのは約120年ぶりであった。ただしこの記録は『隋書』にのみあり、『日本書紀』にはない。
 太子は7年後の607年に再び遣隋使を送るが、この時に託した隋皇帝あての親書の書き出し、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや」(日出店天子致書日没店天子無恙云々)という文章はあまりにも有名である。
 隋の皇帝、煬帝はその手紙を読んで激怒したと伝えられる。煬帝が怒ったのは、「天子」という言葉が使われていたからである。「天子」は中国の皇帝を指す言葉で、世界に一人しか存在しないもののはずだった。ちなみに「王」は中国の皇帝が臣下に与える位のようなものである(卑弥呼の「親魂倭王」など)。太子は隋に対して、「日本は決して冊封を受けない、隋と対等な国である」という気概を示したのだった。
 しかし煬帝は聖徳太子の手紙を無視するということはせず、逆に答礼(とうれい)使を派遣し、日本の朝廷に、今後はそういう非礼はしないようにと伝えた。朝鮮半島の三国をも支配下に収めた強大な隋が、東方の小さな島国の傲慢ともいえる手紙に対し、わざわざ使者を送ったのである。
 これは、当時すでに日本という国が侮れない国力を持っていた証と考えられる。実際、煬帝は、日本を敵に回せば高句麗と手を結ぶかもしれないと心配したともいわれている。
 太子も自国の力がわかっていたからこそ、強気な手紙をしたためたのだろう。朝鮮半島の国々が、中国に対しひたすら平身低頭の外交を伝統としていたのとは正反対である。学者の中には、太子が礼儀も言葉遣いも知らずに手紙を書いたという人もいるが、太子ほどのインテリがそんなことも知らないとは考えられない。
 翌608年、太子は3度目の遣隋使を派遣した。日本の発展のためには、隋と友好関係を結び、優れた文化を取り入れる必要があると考えたからだ。しかしさすがに前のような手紙を書くわけにはいかない。とはいえ、日本の天子を「王」と書くと、自ら冊封を認めることになる。そこで太子は「天皇」という言葉を編み出した。この時の手紙の書き出しは次の通りである。
 「東の天皇つつしみて、西の皇帝にもうす」
 太子は「天皇」という言葉を用いることによって、中国の皇帝と対等の立場であるということを表わしたのだ。煬帝は呆れたに違いないが、その言葉を使ってはならないと日本に伝えた記録はない。
 これが日本における「天皇」という名称の始まりとなった。それまでは「大王」と呼ばれていたのが、これ以降、「天皇」という呼称に代わった。「天皇」という言葉には、日本がどこにも従属しない独立不羈(ふき)の国であるという精神が込められているのである。
 
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