日本国紀
百田尚樹・著 幻冬舎 

 日露戦争

 日本とロシアの戦争は、20世紀に入って初めて行なわれた大国同士の戦いだったが、世界の列強は日本が敗れるだろうと見ていた。ロシアの国家歳入約20億円に対して日本は約2億5千万円、常備兵力は約3百万人対約20万人だった。しかもコサック騎兵は世界最強の陸上部隊といわれ、海軍もまた世界最強といわれていた。
 ロシア陸軍の最高司令官アレクセイ・クロパトキンはこう嘯(うそぶ)いた。「日本兵3人にロシア兵は1人で十分。今度の戦争は単に軍事的な散歩にすぎない」。また日本に4年間駐在していた陸軍武官はこう言っている。「日本軍がどれほど頑張ろうと、ヨーロッパの一番弱い国と勝負するのに百年以上かかる」。今日、私たちは日本がロシアに勝利したことを知っているが、当時、日露戦争は日本にとって絶望的と見られていた戦争だったのだ。
 ただ、この戦争の直前に日本がイギリスと同盟を結んでいたことが一筋の光明だった。日英
同盟では、「どちらかの国が戦争になった場合、一方は中立を守る」とあったが、「もしどちらかが2つの国と戦争になった場合、一方は同盟国に味方をして参戦する」となっていた。この条文が日本に有利に働いた。
 実はロシアは明治29年(1896)に清と露清密約を交わしており、そこには「日本がロシア・朝鮮・清に侵攻した場合、露清両国は陸海軍で相互に援助する」という条文があった。つまり「日露戦争」が始まれば、清はロシアのために日本を攻撃することになっていたのだ。しかし、そうなれば日英同盟によりイギリスが参戦することになるので、清は動けなかった。もし日英同盟がなければ、日本はロシアと清の2つの国を相手に戦うことになり、そうなれば日本に勝ち目はなかったであろう。
 とはいえ清の参戦がなくても、日本が圧倒的に不利なことに変わりはなかった。日本の大きな弱点の一つが資金だった。戦争遂行には膨大な物資を輸入しなければならず、日本はその資金(外貨)が1億円も不足していたのだ。これを外国公債で補おうとしたが、日本の外債は開戦と同時に暴落しており、新たに発行する予定の1千万ポンドの外債の引き受け手はどこにも現れなかった。世界中の投資家が、日本はロシアに敗北すると予想し、資金回収できないと判断していたためである。同盟国イギリスも「公債引き受けは軍費提供となり、中立違反となる」と考え、手をこまねいていた。
 この難事に、日銀副総裁の高橋是清は自らロンドンに出向き、「この戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり、日本は万世一系の天皇の下で一致団結し最後の一人まで戦い抜く所存である」と訴え、中立問題に関しては、「アメリカの南北戦争中に、中立国が公債を引き受けた事例がある」という前例を示してイギリスを納得させた。その上で、額面百ポンドの外債を93.5ポンドまで値下げし、さらに日本の関税収入を抵当とするという好条件を提示して、ロンドンで5百万ポンドの外債発行の見込みを得た(この時の関税での支払いは、何と82年後の昭和61年[1986]に完済)。
 高橋はまたロンドン滞在中に、帝政ロシアを敵視するアメリカのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得て、ニューヨークの金融業界に残りの5百万ポンドの外債を引き受けてもらうことにも成功する。高橋の活躍により、日本はようやく戦う準備が整った。

◆コラム◆
 高橋是清も明治に現れた傑物の一人である。嘉永7年(1854)、江戸で町人の庶子として生まれた高橋(当時は川村家)は、幼少時に仙台藩の足軽の養子となり、13歳の時に藩命によってアメリカに渡る。しかしアメリカで商人に騙され、奴隷として売られ、様々な土地で働かされる。その後、自由を得て、帰国後は文部省で働きながら、共立学校(現在の開成中学校・高等学校)の初代校長として英語を教える。この時の教え子に正岡子規や秋山真之(バルチック艦隊を撃破した名参謀)がいる。
 高橋は日露戦争での活躍により、その後、貴族院議員、日銀総裁、大蔵大臣となり、大正10年(1921)、財政手腕を買われて総理大臣となった。
 昭和2年(1927)、3度目の大蔵大臣在任中に起こった金融恐慌で、全国的な銀行取り付け騒ぎが起きた際には、支払猶予措置(モラトリアム)を断行するとともに、片面だけ印刷した急造の2百円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げさせ、預金者を安心させて金融恐慌をまたたく間に沈静化させた。
 昭和6年(1931)、4度目の大蔵大臣在任中に、2年前に始まった世界恐慌の余波で昭和恐慌が起こるが、高橋は金輸出再禁止、日銀引き受けによる政府支出の増額、時局匡救事業などの政策を矢継ぎ早に打ち出し、世界のどの国よりも早くデフレから脱却させることに成功した。金融に明るく、決断力と判断力に優れた偉大な政治家であった。
 昭和11年(1936)2月、6度目の大蔵大臣在任中、軍事予算縮小を図ったところ、軍部の恨みを買い、青年将校らに自宅で射殺された(二・二六事件)。享年81であった。
 
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