日本国紀
百田尚樹・著 幻冬舎 

 満洲事変

 日本列島から海を隔てた満洲でも不穏な空気が漂っていた。
 世界恐慌の少し前の昭和3年(1928)、満洲を実効支配していた張作霖が列車ごと爆殺されるという事件があった。もとは馬賊だった張は権謀術数に長けた人物で、日露戦争後に日本陸軍の関東軍と手を結び、軍閥を組織して満洲を実効支配し、徴収した金をすべて自分のものとしていた。
 当初、張と関東軍の関係は良好だったが、大正の終わり頃から、物資の買い占め、紙幣の乱発、増税などを行ない、関東軍と利害が対立するようになっていた。さらに欧米の資本を入れて、日本の南満洲鉄道(満鉄)と並行する鉄道を敷設したことで、両者の衝突は避けられなくなった。満鉄は鉄道事業が中心だが、満洲全域に広範な事業を展開し、日本軍による満洲経営の中核となっていた会社だけに、関東軍としても見過ごすわけにはいかなかった。
 張作霖爆殺事件はそんな状況下で起こった。事件の首謀者は関東軍参謀といわれているが、これには諸説あって決定的な証拠は今もってない。
 張作霖の跡を継いだ息子の張学良はこの後、満洲に入植してきた日本人と朝鮮人の権利を侵害する様々な法律を作った。また父の張作霖が満鉄に並行して敷いた鉄道の運賃を異常に安くすることで満鉄を経営難に陥れた。そのため満鉄は昭和5年(1930)後半から深刻な赤字が続き、社員2千人の解雇を余儀なくされた。
 日露戦争でロシア軍を追い出して以降、日本は満鉄をけじめとする投資により、満洲のインフラを整え、産業を興してきた。そのお陰で満洲は大発展したのである。
 この頃、清では戦乱が相次ぎ、日本は満洲の治安を守るために関東軍を置いた。そのため清から大量の難民が押し寄せることとなる。日露戦争が始まった明治37年(1904)頃には約1千万人だった満洲の人口は、20数年の開に3千万人に増えていた。
 同じ頃、蒋介石率いる中国国民党政権と中国共産党による反日宣伝工作が進められ、排日運動や日本人への脅迫やいじめが日常的に行なわれるようになった。日本人に対する暴力事件も多数発生した。
 代表的な事件は「南京事件」と呼ばれるもので、これは昭和2年(1927)3月に、蒋介石率いる中国国民党が南京を占領しか際、中華民国の軍人と民衆の一部が、日本を含む外国領事館と居留民に対して行なった襲撃事件である。暴徒は外国人に対して、暴行・略奪・破壊などを行ない、日本人、イギリス人、アメリカ人、イタリア人、デンマーク人、フランス人が殺害された(この時、多くの女性が凌辱されている)。
 この暴挙に対して、列強は怒り、イギリスとアメリカの艦艇はただちに南京を砲撃したが、中華民国への協調路線(および内政不干渉政策)を取る幣原喜重郎外務大臣は、中華民国への報復措置を取らないばかりか、逆に列強を説得している。さらに日本政府は国内の世論を刺激しないように、「我が在留婦女にして凌辱を受けたるもの1名もなし」と嘘の発表をしたため、現状を知る南京の日本人居留民を憤慨させた(政府は居留民たちが事実を知らせようとする集会さえも禁じている)。
 この時、日本海軍が南京市内を砲撃しなかったことで、中国民衆は、「日本の軍艦は弾丸がない。張り子の虎だ」と嘲笑した。中国国民党がこの事件と日本の無抵抗主義を大きく宣伝したため、これ以降、中国人は日本を見下すようになったといわれる。事実、この事件以降、中国全域で、日本人に対するテロ事件や殺人事件が急増する。
 満洲では、中国共産党に通じたテロ組織が、日本人居留民や入植者を標的にしたテロ事件を起こすようにもなる。
 被害を受けた日本人居留民が領事館に訴えても、前述したように、時の日本政府は、第二次幣原外交の「善隣の誼(よしみ)を敦(あつ)くするは刻下の一大急務に属す」(中国人と仲良くするのが何よりも大事)という対支外交方針を取っていたため、訴えを黙殺した。それどころか幣原外務大臣は、「日本警官増強は日支対立を深め、ひいては日本の満蒙権益を損なう」という理由で、応援警官引き揚げを決定する。
 そのため入植者たちは、満洲の治安維持をしている関東軍を頼り、直接、被害を訴えるようになっていく。それでもテロ事件は収まらず、昭和5年(1930)後半だけで、81件、死者44人を数えた(負傷者は数えきれない)。
 この時、中国人による嫌がらせの一番の標的になっていたのが朝鮮人入植者だった。これは多分に両者の長年の確執と性格によるところもあった。韓国併合により当時は「日本人」だった朝鮮人は、中国人を見下す横柄な態度を取っていたといわれ、中国人にしてみれば、長い間、自分かちの属国の民のような存在と思っていた朝鮮人が自分だちよりもいい暮らしをしているのが我慢ならなかったものと考えられる。中国人から執拗な嫌がらせを受けた朝鮮人入植者は、日本政府に対して「日本名を名乗らせてほしい」と訴える。最初は日本名を名乗ることを許さなかった統監府も、やがて黙認する形で認めることとなる。
 日本政府の無為無策では南満洲鉄道や入植者を守れないと判断した関東軍は、昭和6年(1931)9月、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、南満洲鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業であるとして、満洲の治安を守るという名目で軍事行動を起こした。政府は不拡大方針を取ったが、関東軍は昭和7年(1932)1月までに満洲をほぼ制圧し、張学良を追放した。いわゆる満洲事変である。
「事変」とは、大規模な騒乱状態だが、宣戦布告がなされていない国家間の軍事的衝突を意味する。蒋介石はますます排日方針を強化し、以後、日本は中国大陸での泥沼の戦いに突入していくことになる。
 
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