日本国紀
百田尚樹・著 幻冬舎 

 盧溝橋事件から支那事変

 昭和12年(1937)7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で演習していた日本軍が、中華民国軍が占領している後方の陣地から射撃を受けたことがきっかけで、日本軍と中華民国軍が戦闘状態になった。ただこれは小競り合いで、4日後には現地で停戦協定が結ばれた。しかしその日に、近衛内閣は中国大陸への派兵を決めた。慮溝橋の発砲事件に関しては、中国共産党が引き起こしたという説もあるが、真相は不明である。
 異常な緊張状態の中、その月の29日、北京東方で、「通州事件」が起きる。
 この事件は、「冀東(きとう)防共自治政府」(昭和10年【1935】から昭和13年【1938】まで河北省に存在した自治政府)の中国人部隊が、通州にある日本人居留地を襲い、女性や子供、老人や乳児を含む民間人233人を虐殺した残酷な事件である。その殺害方法は猟奇的で、遺体のほとんどは生前に激しく傷つけられた跡があり、女性は子供から老人までほぼ全員が強姦された上、性器を著しく損壊されていた。これらの記録や写真は大量に残っているが、まともな人間なら正視できないものである。
 この事件を知らされた日本国民と軍部は激しく怒り、国内に反中感情が高まった。また八月に上海の租界で2人の日本の軍人が射殺された(大山事件)こともあり、日本人居留地を守っていた日本軍と中華民国軍が戦闘状態に入った(第二次上海事変)。ドイツの指導と武器援助を受けていた中華民国軍は屈強で、日本軍は思わぬ苦戦を強いられた。
 当時、上海の租界には約2万8千人の日本人が住んでいたが、実は大山事件前にも、日本人を標的にした中国人によるテロ事件や挑発的行為は頻繁に起きていた。
 昭和6年(1931)、商社や商店、個人が受けた暴行や略奪は200件以上。通学児童に対する暴行や嫌がらせは約700件。殺害事件だけでも、昭和7年(1932)から昭和12年(1937)までの間に何件も起きている。犠牲者も軍人だけでなく、托鉢僧や商社員、新聞社の記者など民間人が多数含まれていた。
 第二次上海事変は中華民国の各地に飛び火し、やがて全国的な戦闘となった。ただ、日本が戦闘を行なったのは、そもそもは自国民に対する暴挙への対抗のためであって、中華民国を侵略する意図はなかった。「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」というスローガンが示すように「暴れる支那を懲らしめる(膺懲)」という形で行なった戦闘がいつのまにか全面戦争に発展したというのが実情である。
 当時、日本は中華民国との戦闘状態を総称して「支那事変」(あるいは「日華事変」)と呼んだ。支那事変は大東亜戦争が始まるまでの4年間、両国とも宣戦布告を行なわずに戦い続けた奇妙な戦争であった。その理由は、「戦争」となれば、第三国に中立義務が生じ<
交戦国との交易が中立義務に反する敵対行為となるからだ。したがって両国がともに「事変」扱いとして戦い続けたため、国際的にも「戦争」と見倣されなかった(実質は戦争)。
 装備に優る日本軍はわずか三ヵ月で上海戦線を突破し、その年の12月には首都南京を占領した。日本軍は、首都さえ落とせば、中華民国は講和に応じるだろうと見ていたが、蒋介石は首都を奥地の重慶に移して抵抗した。中華民国には、ソ連とアメリカが積極的な軍事援助を行なっていて、もはや戦争の早期終結は見えなくなっていた。

◆コラム◆
 昭和12年(1937)12月、日本軍による南京占領の後、「30万人の大虐殺」が起きたという話があるが、これはフィクションである。これは日本と日本人の名誉に関わることであるから、やや紙幅を割いて書いておく。
「南京大虐殺」は、日本軍の占領直後から、蒋介石が国民党中央宣伝部を使って盛んに宣伝した事件である。たとえば、南京大虐殺を世界に最初に伝えたとされる英紙マンチェスター・ガーディアンの中国特派員であったオーストラリア人記者のハロルド・ティンパーリは、実は月千ドルで雇われていた国民党中央宣伝部顧問であったことが後に判明している。その著作“
What War Means:The Japanese Terror in China" (邦訳『外国人の見た日本軍の暴行−実録・南京大虐殺―』)の出版に際しては、国民党からの偽情報の提供や資金援助が行なわれていたことが近年の研究で明らかになっている。
「南京大虐殺」を肯定する人たちは、彼の報道を証拠として挙げるが、当時、「南京大虐殺」を報道したのは、そのティンパーリとアメリカ人記者ティルマン・ダーディンだけで、いずれも伝聞の域を出ない(ダーディンは後に自分が書いた記事の内容を否定している)。
 当時、南京には欧米諸国の外交機関も赤十字も存在しており、各国の特派員も大勢いたにもかかわらず、大虐殺があったと世界に報じられてはいない。30万人の大虐殺となれば、世界中でニュースになったはずである。
 また、同じ頃の南京政府の人口調査によれば、占領される直前の南京市民は20万人である。もう一つおかしいのは、日本軍が占領した1ヵ月後に南京市民が25万人に増えていることだ。いずれも公的な記録として残っている数字である。日本軍が仮に1万人も殺していたら、住民は蜘蛛の子を散らすように町から逃げ出していたであろう。南京市民が増えたのは、町の治安が回復されたからに他ならない。当時の報道カメラマンが撮った写真には、南京市民が日本軍兵士と和気藹々と写っている日常風景が大量にある。占領後に捕虜の殺害があったのは事実だが、民間人を大量虐殺した証拠は一切ない。
 もちろん一部で日本兵による殺人事件や強姦事件はあった。ただ、それをもって大虐殺の証拠とはいえない。
 今日、日本は世界でも最も治安のいい国といわれているが、それでも殺人事件や強姦事件は年間に何千件も起こっている(近年の統計によれば、殺人は9百〜1千件、強制性交等はそれ以上)。ちなみにアメリカでは毎年、殺人と強姦を合わせると数十万件も起こっている。ましてや当時は警察も法律も機能していなかったことを考えると、平時の南京では起こらないようないたましい事件もあったと思われる。
 また南京においては「便衣兵」の存在もあった。便衣兵とはわかりやすくいえばゲリラである。軍人が民間人のふりをして日本兵を殺すケースが多々あったため、日本軍は便衣兵を見つけると処刑したし、中には便衣兵と間違われて殺された民間人もいたかもしれない。
 こうしたことが起こるのが戦争である。たとえば戦後の占領下で、アメリカ軍兵士が日本人を殺害したり、日本人女性を強姦したりした事件は何万件もあったといわれる。これらは許されることではないが、占領下という特殊な状況においては、平時よりも犯罪が増えるのは常である。要するに、南京において個々の犯罪例が百例、二百例あろうと、それをもって大虐殺があったという証拠にはならない。
 30万人の大虐殺というからには、それなりの物的証拠が必要である。ドイツが行なったユダヤ人虐殺は夥しい物的証拠(遺体、遺品、ガス室、殺害記録、命令書、写真その他)が多数残っており、今日でもなお、検証が続けられている。しかし「南京大虐殺」は伝聞証拠以外に物的証拠は出てこない。証拠写真の大半は、別事件の写真の盗用ないし合成による捏造であることが証明されている。そもそも日中戦争は8年も行なわれていたのに、南京市以外での大虐殺の話はない。8年間の戦争で、わずか2ヵ月間だけ、日本人が狂ったように中国人を虐殺したというのは不自然である。日本軍は列強の軍隊の中でもきわめて規律正しい軍隊で、それは世界も認めていた。
「南京大虐殺」とは、支那事変以降、アメリカで蒋介石政権が盛んに行なった反日宣伝活動のネタであった。日本軍による「残虐行為」があったとアメリカのキリスト教団体とコミンテルンの工作員が活発に宣伝し、「残虐な日本軍と犠牲者・中国」というイメージを全米に広めた。このイメージに基づいて第二次世界大戦後に開かれた「極東国際軍事裁判」(東京裁判)では日本軍の悪行を糾弾する材料として「南京大虐殺」が取り上げられることになる。
 実はここでもおかしなことがあった。東京裁判では、上官の命令によって一人の捕虜を殺害しただけで絞首刑にされたBC級戦犯が千人もいたのに、30万人も殺したはずの南京大虐殺では、南京司令官の松井石根大将1人しか罪を問われていないのだ。規模の大きさからすれば、本来は虐殺命令を下した大隊長以下、中隊長、小隊長、さらに直接手を下した下士官や兵などが徹底的に調べ上げられ、何千人も処刑されていなければおかしい。しかし現実には、処刑されたのは松井大将1人だけだった。
 東京裁判で亡霊の如く浮かび上がった「南京大虐殺」は、それ以降、再び歴史の中に消えてしまう。「南京大虐殺」が再び姿を現すのは、東京裁判の四半世紀後だ。
 昭和46年(1971)、朝日新聞のスター記者だった本多勝一が「中国の旅」という連載を開始し、そこで「南京大虐殺」を取り上げ、日本人がいかに残虐なことをしてきたかを、嘘とデタラメを交えて書いたことがきっかけとなったのだ。
 この時、本多の南京滞在はわずか一泊二日、「南京大虐殺」を語った証言者は中国共産党が用意したわずか4人である。後日本多自身が「「中国の視点」を紹介することが目的の『旅』であり、その意味では『取材』でさえもない」と語っている。
 この連載が始まった途端、朝日新聞をはじめとする日本の多くのジャーナリズムが「南京大虐殺」をテーマにして「日本人の罪」を糾弾する記事や特集を組み始めた。そうした日本国内での動きを見た中国政府は、これが外交カードに使えると判断したのであろう、これ以降、執拗に日本政府を非難するようになったというわけである。本多勝一の記事が出るまで、毛沢東も周恩来も中国政府も、一度たりとも公式の場では言及したことはなく、日本を非難しなかったにもかかわらずだ。それ以前は、中国の歴史教科書にも「南京大虐殺」は書かれていなかった。
「なかったこと」を証明するのは、俗に「悪魔の証明」といわれ、ほぼ不可能なこととされている。つまり、私かここで書いたことも、「なかったこと」の証明にはならない。ただ、客観的に見れば、「『南京大虐殺』はなかった」と考えるのがきわめて自然である。
 
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