日本国紀
百田尚樹・著 幻冬舎 

 第二次世界大戦

 第二次世界大戦は不思議な戦争だった。イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告したものの、実際にドイツに攻め込むことはしなかったからだ。
 大西洋でのドイツ潜水艦による通商破壊戦の攻防はあったが、8ヵ月間、陸上での戦いはほとんどなかった。そのためイギリスでは「まやかし戦争」(Phoney War)、フランスでは「奇妙な戦争」(Drole de guerre)と呼ばれた。つまりイギリスもフランスも、建前上、ドイツに宣戦布告したものの、本心は戦争をする気がなかったのだ。イギリス国民の多くは、その年の暮れには戦争は終わるだろうと考えていた。
 当時、ドイツ軍は主力を東部戦線に移しており、イギリス軍とフランス軍が一挙に攻め込めば、ドイツ軍は総崩れになったであるうといわれている。ドイツ軍首脳は、フランスとの国境線に大軍を配備しておくべきと主張したが、英仏のそれまでの宥和的態度から、戦う意思がないと見抜いていたヒトラーは、西部戦線をがら空きにして主力をポーランドに集中させた。
 ドイツはポーランドを完全に制圧すると、今度は主力を西部戦線に移し、昭和15年(1940)6月、ダンケルクで、英仏軍に一気に襲いかかった。両国軍はあっという間に撃破され、イギリス軍はヨーロッパ大陸から駆逐され、フランスは首都パリと国土の5分の3を占領された。それを見てイタリアもイギリス、フランスに宣戦布告した。
 ドイツの破竹の進撃を見た日本陸軍内にも、「バスに乗り遅れるな」との声が上がり、新聞もそれを支持した。そして同年9月、近衛文麿内閣は「日独伊三国同盟」を締結した。朝日新聞は、これを一大慶事のように報じた。しかしこの同盟は、実質的には日本に大きなメリットはなく、アメリカとの関係を決定的に悪くしただけの、実に愚かな同盟締結だったといわざるを得ない。
 もっともアメリカのルーズベルト民主党政権はこれ以前から、日本を敵視し、様々な圧力をかけていた。前年の昭和14年(1939)には、日米通商航海条約破棄を通告し、航空機用ガソリン製造設備と技術の輸出を禁止していた。
 また、アメリカやイギリスは、日本と戦闘状態にあった中華民国を支援しており、「援蒋ルート」を使って軍需物資などを送り続けていた。「援蒋ルート」は4つあったが、最大のものは「仏印(フランス領インドシナ)ルート」と呼ばれるもので、ハノイと昆明を結んでいた。
 日本は仏印ルートの遮断を目的として、昭和15年(1940)、北部仏印(現在のベトナム北部)に軍を進出させた。これはフランスのヴィシー政権(昭和15年【1940】にドイツに降伏した後、中部フランスの町ヴィシーに成立させた政府)と条約を結んで行なったものだが、アメリカとイギリスは、ヴィシー政権はドイツの傀儡であり日本との条約は無効だと抗議した。しかし日本はそれを無視して駐留を続けた。
 「援蒋ルート」をつぶされたアメリカは、日本への敵意をあらわにし、昭和15年(1940)、特殊工作機械と石油製品の輸出を制限、さらに航空機用ガソリンと屑鉄の輸出を全面禁止する。
 アメリカから「対日経済制裁」の宣告を受けた日本は、石油が禁輸された場合を考え、オランダ領インドネシアの油田権益の獲得を目論んだ。当時、オランダ本国はドイツに占領されていたが、インドネシアはロンドンのオランダ亡命政府の統治下にあった。
 翌昭和16年(1941)、日本軍はさらに南部仏印(現在のベトナム南部)へと進出した。アメリカのルーズベルト政権はこれを対米戦争の準備行動と見做し、日本の在米資産凍結令を実施した。イギリスとオランダもこれに做った。そして同年八月、アメリカはついに日本への石油輸出を全面的に禁止したのである。
 当時、日本は全石油消費量の約8割をアメリカから輸入していた。それを止められるということは、息の根を止められるのと同じだった。日本はオランダ領のインドネシアから石油を輸入しようとしたが、オランダ亡命政府(当時はイギリスからカナダに拠点を移していた)は、アメリカとイギリスの意向を汲んで日本には石油を売らなかった。
 この時、日本の石油備蓄は約半年分だったといわれている。つまり半年後に日本は軍艦も飛行機も満足に動かせない状況に陥るということだった。もちろん国民生活も成り立だなくなる。まさに国家と国民の死活問題であった。
 日本は必死で戦争回避の道を探るが、ルーズベルト政権には妥協するつもりはなかった。それどころかルーズベルト政権は日本を戦争に引きずり込みたいと考えていたと指摘する歴史家もいる。
 アメリカがいつから日本を仮想敵国としたのかは、判然としないが、大正10〜11年(1921〜1922)のワシントン会議の席で、強引に日英同盟を破棄させた頃には、いずれ日本と戦うことを想定していたと考えられる。それを見抜けず、日英同盟を破棄して、お飾りだけの平和を謳った「四力国条約」を締結してよしとした日本政府の行動は、国際感覚が欠如しているとしかいいようがない。
 それから約20年後の昭和14年(1939)には、アメリカははっきりと日米開戦を考えていたといえる。ただルーズベルト大統領は、第二次世界大戦が始まっていた昭和15年(1940)の大統領選(慣例を破っての3期目の選挙)で、「自分が選ばれれば、外国との戦争はしない」という公約を掲げて当選していただけに、自分から戦争を始めるわけにはいかなかった。彼は「日本から戦争を仕掛けさせる方法」を探っていたはずで、日本への石油の全面禁輸はそのための策であったろう。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]