日本国紀
百田尚樹・著 幻冬舎 

 悪魔の如きアメリカ軍

 アメリカ軍は沖縄を攻略する前に、3月に東京大空襲を行なっている。これはアメリカが日本の戦意を挫くために、一般市民の大量殺戮を狙って行なわれたものだった。
 この作戦を成功させるために、アメリカ軍は関東大震災や江戸時代の明暦の大火についてまで調べ、どこを燃やせば日本人を効果的に焼き殺せるかを事前に研究し尽くして、空襲場所を浅草区、深川区、本所区などを中心とする民家密集地帯に決めた。またどのような焼夷弾が有効かを確かめるために、ユタ州の砂漠に日本の民家を建てて街を作り、実験を行なっている。その家の中には、ハワイから呼び寄せた日系人の職人に、布団、畳、障子、卓袱台(ちゃぶだい)までしつらえさせるという徹底ぶりだった。
 そしてサイパン基地から3百機のB129に爆弾を積めるだけ積んで出撃し(そのために機銃まで降ろしていた)、3月9日の深夜から10日の未明にかけて、2,000メートルという低空から東京都民に爆弾の雨を降らせた。その結果、一夜にして老人、女性、子供などの非戦闘員が10万人以上殺された。これはハーグ陸戦条約に違反した明白な戦争犯罪行為だった。
 5月にドイツが無条件降伏し、世界を相手に戦っているのは日本だけとなった。
 東京はその後も何度か大空襲に遭い、全土が焼け野原となった。アメリカ軍はその年の5月に東京を爆撃目標リストから外したほどだ。被害に遭ったのは東京だけではない。大阪、名古屋、札幌、福岡など、日本の主要都市は軒並み焦土にされ、全国の道府県、430の市町村が空襲に遭った。アメリカ軍の戦闘機は逃げ惑う市民を、動物をハンティングするように銃撃した。空襲による死者数は、調査によってばらつきがあるが、数十万人といわれている。
 アメリカ軍による最も残虐な空襲は、同じ年の8月に、広島と長崎に落とした2発の原子爆弾(原爆)だった。これも無辜の一般市民の大量虐殺を意図したもので、明白な戦争犯罪である。この時点で日本の降伏は目前だったにもかかわらず、人類史上最悪の非道な行為に及んだことは許しがたい。
 原爆投下は、戦後にいわれているような、戦争を早期に終わらせるためにやむなく行なったものではなく、原爆の効果を知る実験として落とされたと見て間違いない。その理由として、広島と長崎にわざわざ異なるタイプの原爆を落としていることや、効果を知るために、原爆投下候補地にはそれ以前、通常の空爆を行なっていなかったことが挙げられる。ちなみに京都がほとんど空襲されなかったのも原爆投下候補地の一つであったからだ。
 何より忘れてはならないのは、原爆投下には有色人種に対する差別が根底にあるということだ。仮にドイツが徹底抗戦していたとしても、アメリカはドイツには落とさなかったであろう。昭和19年(1944)9月にニューヨークのハイドパークで行なわれたルーズベルト米大統領とチャーチル英首相の「核に関する秘密協定」において、原爆はドイツではなく、日本へ投下することを確認し合っているからだ。
 原爆投下のもう一つの目的は、ソ連に対しての威圧だった。アメリカは戦後の対ソ外交を有利に運ぶために原爆投下を昭和20年(1945)の5月には決定していた。
 2発目の原爆が落とされた8月9日、ソ連が「日ソ中立条約」を破って参戦した。もはや日本が戦争を継続するのは不可能だった。5日後の8月14日、日本は「ポツダム宣言」を受諾すると連合軍に通達した。ここに日本が3年9ヵ月戦った大東亜戦争の終わりが決定した。
 古代以来、一度も敗れることがなかった日本にとって初めての敗北であった。同時に、16世紀より続いていた欧米列強による植民地支配を撥ね返し、唯一独立を保った最後の有色人種が、ついに白人種に屈した瞬間でもあった。

◆コラム◆
「ポツダム宣言受諾」は、昭和20年(1945)8月9日の御前会議で決定した。
 場所は宮中御文庫附属庫の地下10メートルの防空壕内の一室だった。時刻は午後11時50分。列席者は鈴木貫太郎首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、枢密院議長の7人であった(他に陪席四人)。
 司会の首相を除く6人は、「ポツダム宣言受諾派」(外務大臣・海軍大臣・枢密院議長)と「徹底抗戦派」(陸軍大臣・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長)で真っ二つに分かれた。
 日本政府が「ポツダム宣言」を受諾すれば、天皇は戦犯として処刑される可能性もあったが、会議中、一切発言しなかった。時に昭和天皇は44歳であった。
 昭和天皇は、その生涯にわたって、「君臨すれども親裁せず」という姿勢を貫いていた。「親裁」とは、君主自らが政治的な裁決を下すことである。したがって国民が選んだ内閣の決定には口を挟まないという原則を自らに課していた。それを行なえば専制君主となり、日本は立憲国ではなくなるという考えを持っていたからだ。大東亜戦争の開戦には反対だったにもかかわらず、開戦が決まった御前会議においても、内閣の決定に対しては一言も異議を唱えなかった。
「ポツダム宣言」をめぐっての会議は完全に膠着状態になった。
 日付が変わって午前2時を過ぎた頃、司会の鈴木貫太郎首相が、「事態は一刻の遷延も許されません。誠に畏れ多いことながら、陛下の思し召しをお伺いして、意見をまとめたいと思います」と言った。
 ずっと沈黙を守っていた昭和天皇は、「それならば、自分の意見を言おう」と、初めて口を開いた。
 一同が緊張して見守る中、天皇は言った。
「自分は外務大臣の意見に賛成である」
 日本の敗戦が決まった瞬間であった。
 恐ろしいまでの静寂の後、部屋にいた全員がすすり泣き、やがてそれは号泣に変わった。
 薄暗い15畳ほどの地下壕で、11人の男たちが号泣する中、昭和天皇は絞り出すような声で言った。
「本土決戦を行なえば、日本民族は滅びてしまうのではないか。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来ようか。自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残っていてもらい、その人たちが将来再び起ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。そのためなら、自分はどうなっても構わない」
 この時の御前会議の様子は、陪席した迫水久常内閣書記官長(現在の内閣官房長官)が戦後に詳細を語ったテープが残っている(国会図書館所蔵)。この録音を文字起こしした文章を読めば、当夜の異様な緊迫感がこれ以上はないくらいの臨場感をもって迫ってくる。
 日本政府はその日の朝、連合軍に「ポツダム宣言受諾」を伝えるが、この時、「国体護持」(天皇を中心とした秩序【政体】の護持)を条件に付けた。連合国からの回答は13日に来たが、その中に「国体護持」を保証する文言がなかったため(天皇の処刑の可能性もあった)、政府は14日正午に再び御前会議を開く。この時の列席者は、9日の時の7人に加え、全閣僚を含む計23人であった。
 この場で、「(陛下を守れないなら)本土決戦やむなし」という声が上がるが、昭和天皇は静かに立ち上がって言った。
「私の意見は変わらない。私自身は如何になろうとも、国民の生命を助けたいと思う」
 もはや列席者一同は慟哭するのみであった。
 同日、「ポツダム宣言受諾」は閣議決定され、午後11時、連合国側へ通達された。こうして大東亜戦争は終結した。
 
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