日本国紀
百田尚樹・著 幻冬舎 

 占領軍と朝鮮人の犯罪

 占領中に、アメリカ兵に殺害された日本人は4千人近く、強姦された婦女子は記録されているだけでも2万人にのばった(被害を届けなかったケースを考慮すると、実際はその何倍もいたと思われる)。しかし日本の警察は、アメリカ兵の犯罪を捜査することも検挙することもできなかった。また新聞も報道を禁じられていた。
 日本人に対して狼藉を働いたのはアメリカ兵だけではない。戦前から日本にいた朝鮮人の一部が、日本人に対して、殺人、強盗、傷害、強姦、窃盗などを働いた。彼らはまた焼け跡の一等地を不法に占拠し、あるいは日本人の土地や家屋を奪った。
 実は、これはGHOの政策が大いに関与していた。GHOは当初、朝鮮人を「戦勝国民」に準じるとしたのだ。前述したように、占領初期は、新聞で朝鮮人を批判することは許されず、また彼らを裁判で裁くことも禁じられた。
 GHOは、当時の欧米列強の常識にあてはめ、「日本人は朝鮮人を奴隷扱いしていた」という誤った認識を持っており、戦争によって「奴隷を解放した」と考えていたからだ。他の連合国軍兵士と同様に不逮捕特権まで得た朝鮮人は、日本人相手に乱暴狼藉の限りを尽くした。
 はじめは朝鮮人の行動を黙認していたGHQも事態を重く見て、昭和20年(1945)9月30日に、「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」で、朝鮮人が「治外法権の地位にないこと」を明らかにする発表を行なった。つまり、それまでは「治外法権」を認められていたことになる。
 それでも不逞朝鮮人の日本人に対する乱暴は収まらなかった。しかし当時の警察官はGHQにより拳銃の所持を認められておらず、武装した朝鮮人らを逮捕することが難しかった。また逮捕しても、警察署が襲われて、犯人を奪い返される事件も頻発した。昭和20年(1945)から22年(1947)にかけてだけでも、警察署や派出所が朝鮮人に襲撃されたり警察官が殺害されたりした事件が10件以上も起きている。
 そこでGHQは、昭和24年(1949)、団体等規制令の「暴力主義的団体」として「在日本朝鮮人連盟」に解散を命じた。その後、同団体は「在日本朝鮮人総聯合会」(朝鮮総聯)へと発展していく。
 ところで当時の新聞や官公庁の発行物には、在日朝鮮人や在日台湾人に対して「第三国人」あるいは「三国人」という言葉が使われている。これはもともと「戦勝国、敗戦国いずれでもない第三国の国民」という意味の終戦処理に伴う行政用語で、事実上、朝鮮人と台湾人を指した。GHOが彼らを「third nation」と呼んだことが出来だといわれている(他説もあり)。本来は差別語ではなかったが、戦後の動乱期における一部の朝鮮人の悪行に眉をひそめた日本人が、悪感情を込めて「三国人」と呼んだことから、いつしか差別語の一つと捉えられるようになった。在日韓国・朝鮮人に関する社会問題は、その後も日本社会に根深く残ることになる。

◆コラム◆
 公職追放および教職追放は、GHOにとっても大きな誤算となった。GHOの後押しによってメディアと教育界に入り込んだ社会主義者や共産主義者たちが大きな勢力を持ち始めたからだ。一般企業でも労働組合が強くなり、全国各地で暴力を伴う労働争議が頻発した。これらはソ連のコミンテルンの指示があったともいわれている。さらに昭和24年(1949)、中国共産党が国民党に勝利して共産主義国を樹立したことにより、日本の大学やメディアでもソ連や中華人民共和国を礼賛する傾向が強くなった。
 日本の共産化を恐れたGHQは、昭和25年(1950)、日本共産党の非合法化を示唆した。その後、官公庁、大企業、教育機関などから、共産主義者およびそのシンパの追放を勧告した(レッドパージ)。これにより1万数千人以上の人が様々な職場から追放されたが、それらはかつでの公職追放や教職追放のような徹底したものではなかった。
 大学では共産主義者およびそのシンパの追放はほとんど行なわれなかった。これはメディアも同様だった。また国鉄(日本国有鉄道。その後、JR各社に分かれる)の巨大労働組織で長年にわたり国民の血税を貪り続けた国労(国鉄労働組合)などでは、共産主義者たちが、共産主義に反対する人々を、逆に共産主義者だと名指しして解雇し、実権を握った。こうして共産主義的な思想は日本社会のいたるところに深く根を下ろしていくことになる。
 
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