古代霊は語る
シルバー・バーチ霊訓より
近藤千雄・訳編 潮文社 
第2章 絶対不変の法則 ― 因果律 ―

 神の法律に偶然というものはない

 ではこれからシルバー・バーチにその点をくわしく説いてもらいましょう。

 あなたがたがスピリチュアリズムと呼んでいるものも神の法則の一部です。神は宇宙を法則によって統一し、法則を通じてその意志を表現しているのです。宇宙のどこをさがしても、法則の支配しない場所など一箇所もありません。人間がこれまでに知り得た範囲に限りません。それよりはるかに大きい、人智の及ばないところまでも、完全に神の法則が支配しております。
 自然界の法則はいわば神の定めた法律です。およそ人間界の法律といわれるものには変化(改正)がつきものです。不完全であり、全てを尽くすことができないからですが、神の法律は全てを尽くし、至らざるところはありません。偶然とか偶発というものは絶対にあり得ません。すべてが規制され、すべてが計算されているのです。
 あなたがたは肉体を具えていますが、これは一種の機械です。つまり肉体という機械をあやつりながら自己を表現しているわけです。かりに悩みを抱いたとしますと、それは水門を閉ざすのと同じで、生気の通るチャンネルを失うことになります。つまりエネルギーの供給がカットされ、不健康の要因ができあがります。あなたがたがそのことに気づくまで、肉体は悩みと病気の悪循環を繰り返します。
 また悩みは肉体の霊的大気ともいえるオーラにも悪影響を及ぼし、それが心霊的バイブレーションを乱します。悩みを取り除かないかぎり、心霊的エネルギーは流れを阻害され病気の要因となります。悩みや恐怖心を超越する――言いかえると自我のコントロールが出来るような
るには、長い年月と厳しい修養がいります。
 それも実は神の無限の愛と叡智から出た法則なのです。その悩みに費されるエネルギーを建設的な思考に切りかえれば、決して病いは生じません。神の法則は完璧です。そして、あなたがたはその中の無くてはならない存在なのです。向上進化という至上目的のために必要な勉強のチャンスは、日常生活の中にいくらでも見出せるのです。
 私か法則を変えるわけにはいきません。原因と結果の法則は絶対であり、私がその間に入ってどうこうするということは許されないのです。ただ、そういう法則の存在を教え、そんな心構えでいては病気になりますヨという警告をしてあげることは出来ます。肉体は機械ですから、それなりの手入れが必要です。手入れを怠ると働きが悪くなります。ですから時には休息させて回復のチャンスを与え、その本来の働きを取り戻すように配慮してやらなくてはいけません。神の法則はごまかしがきかないのです。
 人間は肉体という機械を通して自分を表現しています。その機械にもエネルギーの限界があり、バッテリーに充電してやらなくてはならない時期が来ます。それを知ってそれなりの手段を講じるのはあなた自身の責任であり義務なのです。なぜなら地上生活を生きる上で欠かすことのできない大切な道具だからです。
 私がいかにあなた方のしあわせを願っているとはいえ、あなた方に代ってその責任と義務を遂行してあげるわけにはいかないのです。心に思うこと、口に出す言葉、そして実際の行動、このいずれにも責任をとらされます。あくまで自分が責任を負うのです。が、そのいずれも地上生活においては結局肉体という機械を通じて表現するわけですから、その機械が正常に働いてくれるように、ふだんから健康管理に気を配らなくてはいけません。肉体は実に驚嘆に値するすばらしい器官です。地上でこれ以上の入り組んだ器官をこしらえることはまずできないでしょう。正に驚異といってよいものですが、やはりそれなりの手入れは必要なのです。
 もちろん法則と調和した生活を送っておれば病気も不快も苦痛も生じないでしょう。病気とか不快とか苦痛とかは自然法則との不調和の信号にほかならないからです。法を犯してその代償を払うか、法を守って健康を維持するか、そのいずれかになるわけです。
 人間の思想・言動において動機というものが大きなポイントになることは確かですが、法則を犯したこと自体はやはりそれなりの代償を払わねばなりません。動機さえ正しければ何をやってもかまわないというわけにはいかないということです。肉体を犠牲にしてまで精神的な目標を成就すべきかどうかは、その人の進化の程度によって判断が異ってくる問題ですが、ただ地上に生を享けた以上は、それなりの寿命というものが与えられているのですから、それを勝手に縮めることは神の意志に反します。
 たとえば人類愛に燃えた崇高な人物がいると仮定しましょう。その人が博愛事業のために肉体を犠牲にすることが果たして許されるかとなると、それはその人個人の問題であって一概に断定はできませんが、ただ残念なのは、得てしてそういう人の動機がはたからみるほど純粋ではないということです。その腹の底にはオレは偉い人物だといううぬぼれがどこかに潜んでいるものです。それが無理な行動に自分を駆りたてる結果となっていることに気づかないのです。
 ひと口に法則といっても、肉体を支配する法則もあれば、精神を支配する法則もあり、霊的な法則もあり、それらが絡み合った法則もあります。そうした法則を人間はもうダメだというギリギリの段階に至るまで気がつかないからやっかいなのです。なぜでしょう。人間と宇宙の真実の相を知らないからにほかなりません。要するにこの世はすべて“物”と“金”と考えているからです。
 が、そうした苦しみの末に、いつかは真実に目覚める時がやってまいります。自我の意識が芽生え、内在する神性が目覚めはじめます。これも実は神の因果律の働きの結果なのです。つまり苦しみが大きければ大きいほど、それだけ目覚める知識も大きいということです。
 別の言い方をすれば、神は宇宙の一ばん優秀な会計係と考えればいいでしょう。収支のはバランスをきちんと合わせ、使途の配分に一銭の狂いもありません。あなたは受け取るに値するだけを受け取り、多すぎもせず、少なすぎることもありません。その価値判断はあなたの霊的進化の程度を考慮した上で行なわれます。地上でごまかしやお目こぼしがきくようですが、霊的なことに関するかぎりそれは絶対に有り得ません。
 大自然の法則は完璧です。その背後には神の無限の愛と叡智が働いております。私たちがこしらえたのではありません。私たちはただその働きを知っているだけです。原因があれば結果があり、その結果が新らしい原因となってまた次の結果を生んでいくという法則です。その間に何者も介入することを許されません。偶然もありません。幸運もありません。ただ法則があるだけです。
 法則が撤廃されるなどということも絶対にありません。執行の猶予も保留も妨害もありません。絶え間なく機能し、変化することもなく、また人為的に変えることも出来ません。法則の中から都合のいいものを選ぶことも出来ません。絶対なのです。神とはすなわち法の極致であり、法の粋であり、いかなる力、いかなる情実をもってしても動かすことは出来ません。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]