古代霊は語る
シルバー・バーチ霊訓より
近藤千雄・訳編 潮文社 
第3章 再生 ――生まれ変わり――

 類魂について A

 さてマイヤースのもう一つの霊界通信に『個人的存在の彼方』があります。これも『永遠の大道』と同じく浅野氏が絶讃し翻訳しています。これも私はノートにコピーしたものを所有していますが、原書を読んでみると、通信は三部から構成されていて、浅野氏の訳はその第二部を訳出したものにすぎないことがわかりました。                    
 確かにこの第二部は圧巻であり、褒めることの滅多になかった浅野氏が絶讃したのも肯ける内容であることに間違いないのですが、第一部および第三部にも珠玉のような内容のものが散見されます。その一つがこれから紹介する「再生」Reincarnationの項で、『永遠の大道』の「類魂」の章の足らざる部分を補うような形になっています。むしろ、これを読んで始めて類魂というものが全体的に理解できるのではないかと思われます。

 地上で動物的本能の赴くままに生きた人間が、こんどは知的ないし情緒的生活を体験するために再び地上に戻ってくることは、これはまぎれもない事実である。言いかえれば、私のいう「肉の人」はまず間違いなく再生する。
 私のいう「魂の人」の中にも再生という手段を選ぶ者がいないわけではない。が、いわゆる輪廻転生というのは機械的な再生の繰り返しではない。一つの霊が機械か回転するように生と死を繰り返したという例証を私は知らない。百回も二百回も地上に戻るなどということはまず考えられない。その説は明らかに間違っている。もちろん原始的人間の中には向上心つまり動物的段階から抜け出ようとする欲求がなかなか芽生えない者がいるだろうし、そういう人間は例外的に何度も何度も再生を繰り返すかも知れない。が、まず大部分の人間は二回から三回、ないしせいぜい四回くらいなものである。もっとも中には特殊な使命または因縁があって八回も九回も地上に戻ってくる場合もないではない。従っていい加減な数字を言うわけにはいかないが、断言できることは、人間という形態で五十回も百回も、あるいはそれ以上も地上をうろつきまわるようなことは絶対にないということである。
 たった二回や三回の地上生活では十分な経験は得られないのではないか、こうおっしゃる方がいるかも知れない。がその不足を補うための配慮がちゃんと用意されているのである。
 乞食、道化師、王様、詩人、母親、軍人、以上は無数にある生活形態の中から種類と性質のまったく異なるものを無雑作に拾い上げてみたのであるが、注目すべきことは、この六人とも五感を使っている(不幸にしてそのうちの一つないし二つを失えば別だが)という点では全く同じであること、言いかえれば人間生活の基本である喜怒哀楽の体験においては全く同じ条件下にあり、ただ肉体器官の特徴とリズムがその表現を変えているにすぎない、ということである。
 そうは言っても、彼らが地上生活を六回送っても、人間的体験全体からみればホンの一部分しか体験できないことは確かである。苦労したといってもたかが知れている。人間性の機微に触れたといっても、あるいは豁然大悟したといっても、その程度は知れたものである。人間の意識の全範囲、人間的感覚のすべてに通暁するなどということはまず出来ない相談だといっていい。それなのに私は、地上生活の体験を十分に身につけるまでは(特殊な例外を除いては)、死後において高級界に住むことは望めない、とあえて言うのである。
 その矛盾をとくのが私のいう類魂の原理である。われわれはそうした無数の地上的体験と知識を身につけるために、わざわざ地上に戻ってくる必要はない。他の類魂が集積した体験と知識をわがものとすることが可能なのである。誰にでも大勢の仲間かおり、それらが旅した過去があり、いま旅している現在があり、そしてこれから旅する未来がある。類魂の人生はまさしく「旅」である。私自身はかつて一度も黄色人種としての地上体験をもたないが、私の属する類魂の中には東洋で生活した者が何人かおり、私はその生活の中の行為と喜怒哀楽を実際と同じように体験することが出来るのである。
 その中には仏教の僧侶だった者もいれば、アメリカ人の商人だった者もおり、イタリア人の画家だった者もいる。その仲間たちの体験を私がうまく吸収すれば、わざわざ地上におりで生活する必要はないのである。
 こうした類魂という“より大きな自分”の中に入ってみると、意志と精神と感性とがいかにその偉力を増すものであるかがわかる。自意識と根本的性格は少しも失われていない。それでいて性格と霊力が飛躍的に大きくなっている。幾世紀にもわたる先人の叡智を、肉体という牢獄の中における“疾風怒濤”の地上生活によってではなく、肌の色こそ違え、同じ地上で生活した霊的仲間たちの体験の中から、愛という吸引力によってわがものとすることが出来るのである。
 仮に不幸にして不具の肉体をもって地上に生まれたとすれば、それは前世において何らかの重大な過ちを犯し、それを償うには、そうした身体に宿るのが一ばん効果的であるという判断があったと解釈すべきである。
 たとえば白痴に生まれついた者は、それなりの知能で地上生活を実感し、それなりの地上的教訓を吸収することを余儀なくさせられる。地上で暴君とか残忍な宗教裁判官だった者は、白痴とか精神薄弱児として再生することがよくある。つまり他界後彼らは自分の犠牲者たちの苦しみをみて深く反省し、良心の苛責を感じるようになる。時にはその苛責があまりに大きくて、精神的中枢が分裂することがある。そしてその状態のまま地上の肉体に生まれ変わる。言いかえれば地上時代の罪悪の記憶に追い回され、悪夢にうなされ、さらには犠牲者たちが自分に復しゅうしようとしているという妄想によって、それが一段と強烈になっていき、ついには精神的分裂症になったまま再生するのである。
 再生には定まった型というものはない。一人一人みな異なる。死後の生活においては、だれしも地上生活を振り返り、その意義を深く吟味する時期がかならず来る。原始的人間であれば、それが知性でなく本能によって、つまり一種の情感的思考によって行われ、魂の深奥が鼓舞される。その時、類魂を統一しているスピリットが再び地上に戻る考えを吹き込む。といって、決して強制はしない。あくまで本人に選択の自由が残されている。が、スピリットは進化にとって最も効果的な道を示唆し、個々の類魂もたいていの場合その指示に従うことになる。
 初めて地上に生まれてくる霊の場合は特別な守護が必要なので、類魂との霊的なつながりが特に密接となり、その結果その直接の守護に当たる霊のカルマが強く作用することになる。守護霊は多分三回ないし四回の地上生活を体験しているであろうが、まだ完全に浄化しきってはいない。言いかえると、霊的進化にとって必要な物的体験をすべて吸収しきってはいない。そこでその不足を補うのに次の二つの方法が考えられる。一つは、さきほど紹介した類魂の記憶の中に入っていく方法と、もう一つは地上に生まれた若い類魂の守護霊となり、自分の残したカルマの中でもう一度その類魂と共に間接に地上生活を送る方法である。
 後者の場合、地上の類魂はいわば創造的再生の産物である。言ってみれば自分の前世の生き証人であり、これによって霊的に一段と成長する。
 霊魂とは創造的理解力の中枢である。が、中にはその力が乏しくてどうしても創造主の心の中に入り込むことが出来ない者がいる。そんな時、類魂を統一するスピリットは、永遠不滅の超越界に入る資格なしとみて、いま一度はじめからのやり直しを命じる。私が前著をThe Road to Immortality(永遠への道程)と呼びThe Road of Immortality(永遠なる道程)としなかったのはそのためである。中途で落伍する者がいるということである。が、それまでの旅路で得たものは何一つ無駄にならないし、何一つ失われることはない。すべての記憶、すべての体験は類魂の中にあずけられ、仲間の活用に供せられるのである。
 私は確信をもって言うが、私のいう“霊の人”のうちのある者は、たった1回きりしか物質界を体験しない。また私の考えでは、イエス・キリストはエリアの再生ではない。他の何者の再生でもない。イエスは神の直接の表現、すなわちことばが肉となったのである。イエスはたった一度だけ地上に降りて、そして一気に父なる神のもとに帰っていった。イエスにとって途中の段階的進化の旅は無用であった。そこにイエス・キリストの神性の秘密が存在する。


 エリアというのは旧約聖書に出てくる紀元前九世紀ごろのヘブライの預言者のことです。キリスト教界ではイエスはエリアの再来であると説く人がいるためにこんなことをマイヤースも言うわけです。
 余談になりますが、シルバー・バーチがキリスト教について語っている中に「今もしイエスが地上に再来し同じ教えを説いたら、まっさきに石を投げつけるのは現在のキリスト教徒たちでしょう」というくだりがあります。言うまでもなく、現在のキリスト教が二千年前にイエスが説いた教えとはすっかり違ったものになっていることを言っているわけですが、同じことが仏教をはじめとして他の既成宗教のすべてに言えるのではないでしょうか。だからこそ改めて霊的真理を説くためにやってきたのだとシルバー・バーチは言うのです。
 
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