古代霊は語る
シルバー・バーチ霊訓より
近藤千雄・訳編 潮文社 
第4章 苦しみと悲しみと ― 魂の試練 ―

 試練に関するシルバー・バーチの訓話 @

 前章では再生というスピリチュアリズム思想の中でも最も異論の多い課題を取り上げました。たとえ異論はあっても、そこに必ずや真実があるはずであり、万一再生することが真実であれば、これほど人生観に与える影響の大きいものはないと考えたからです。
 影響が大きいと言えば、死後の存続という事実こそ、まず誰にとっても画期的な影響を与える話題であるはずです。私自身も哲学的な思考の芽生え始めた高校時代にスピリチュアリズムに接して、万一死後もこのまま生き続けるとしたら、賢こぶった哲学的で抽象的な思考にふけっている場合ではないという、せっぱつまった心境で心霊学に取り組み、結果的には一種の思考革命のようなものを体験しました。
 つまり“生と死”を深刻な主題としていた思考形式から、死を超越した生のみの思考形式に変異し、それ以後は想像の翼がひとりでにはばたいて、自由自在に広がっていく思いがしました。そしてそれは今なお続いており、私にとってこれほど楽しいレクリエーションはないといってもいいほどです。
 それというのも、シルバー・バーチやマイヤース、イムペレーター等のアカ抜けのした霊界通信のおかげにほかならないのですが、その前に、心霊実験会において目に見えない霊の存在をまざまざと見せつけられていたことが大きな転換のキッカケとなっているようです。

 この死後の存続という事実は今では少なくともスピリチュアリズムでは自明の事実であり、真理探求の大前提となっておりますが、私は、前章でも述べた通り、再生に関する事実も、第一級の霊界通信の述べるところが完全に符節を合しているところから、まず前章で紹介したところが再生の真相とみて差し支えないと信じます。
 とくに半世紀にわたるシルバー・バーチの霊言が、その間いささかの矛盾撞着もなく、首尾一貫して同じ説を述べ続けていることに注目すべきだと考えます。
 そのシルバー・バーチが説いていることの中で特に着目すべきことは、いかなる真理も、それを受け入れる準備が魂に備わるまで、言いかえればそれを理解するだけの意識の開発、むずかしく言えば霊格の進化がなければ決して悟ることはできない、ということです。
 従って知識ばかりをいくら溜め込んでも、それが即その人の成長のあかしとはならない。シルバー・バーチのたとえでいえば、世界中の蔵書を全部読んだところで、それを実地に体得しないことには何にもならない。再生する目的はつまるところは体験を求めに来ることにほかならない、というわけです。 
 さてその“体験”ということを考えてみますと、同じ条件下に置かれても、人によってその反応は百人百様の違いがあるはずです。ましてや男性と女性とでは比較しようもないほどの差があります。男らしいといい、女らしいといっても、地上の人間に関するかぎり、それは肉体の生理的表現にすぎず、つきつめて言えば性ホルモンの違いというにすぎません。前章のシルバー・バーチの最後の言葉にあるように、大半の人間は物質によって魂が右往左往しているのが現実の姿であることは確かです。
 そうなると当然一回や二回の地上生活ではとても十分とは言えないわけで、その辺に再生の必要性が生じてくるわけですが、厳密に言えばマイヤースの言う通り、たとえ何十回何百回再生をくりかえしても地上体験による魂の成長には限度がある。つまり魂に響くほどの体験、俗な言い方をすれば、骨身にしみるほどの体験がそうやたらにあるものではないことは、実際に地上生活を送っているわれわれがいちばんよく知っています。
 となると、漫然と日常生活を送ることには何の意味もないことになり、そこに守護霊を中心とする背後霊団の配慮の必要性が生じてまいります。表向きは平凡な生活を送っているようで、その実は次々と悩みや苦労、悲しみのタネが絶えないのが現実です。シルバー・バーチに言わせれば、それは全て魂の試練として神が与えて下さるのであって、それが無かったら人生は何の意味もないと言います。

 あなたがたもそのうち肉体の束縛から離れて、物質的な曇りのない目で、地上で送った人生を振り返る時が来るでしょう。その時、その出来ごとの一つ一つがそれぞれに意味をもち、魂の成長と可能性の開発にとってそれなりの教訓をもっていたことを知るはずです。

 そう述べて、困難も試練もない、トラブルも痛みもない人生は到底あり得ないことを強調します。では少し長くなりますが、シルバー・バーチの教えに耳を傾けてみましょう。

 この交霊会に出席される方々が、もし私の説く真理を聞くことによってラクな人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた使命に背いたことになります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。それに敢然と立ち向かい、それを克服し、そして一層力強い人間となって下さることが私どもの真の目的なのです。
 霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身についたらお金を落とすような具合になくしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐え切れないほどの苦難を背負わされるようなことは決してありません。解決できないほどの難問に直面させられることは絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが、旅する魂の当然の姿なのです。
 それはもちろんラクなことではありません。しかし魂の宝はそう易々と手に入るものではありません。もしラクに手に入るものであれば、何も苦労する必要などありますまい。痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとっていちばんの薬なのです。
 私どもは、いくらあなた方のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿を、あえて手をこまねいて傍観するほかない場合がよくあります。そこからある教訓を学び取り、霊的に成長してもらいたいと願い祈りながら、です。知識にはかならず責任が伴うものです。その責任をとってもらうわけです。霊はいったん視野が開ければ、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことはないはずです。さんさんと太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身にしみません。魂が目を覚ましそれまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲たれこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。
 地上の人生は所詮は一つの長い闘いであり試練なのです。魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもいいでしょう。魂にはありとあらゆる種類の長所と弱点が秘められております。即ち動物的進化の名残りである下等な欲望や感情もあれば、あなたの個的存在の源である神的属性も秘められているのです。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには是非とも厳しい試練が必要なのです。
 
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