古代霊は語る
シルバー・バーチ霊訓より
近藤千雄・訳編 潮文社 
第4章 苦しみと悲しみと ― 魂の試練 ―

 シルバー・バーチとの一問一答 B

 自殺した者は霊界でどうなるでしょうか。
シルバー・バーチ
 それは一概には言えません。それまでどんな地上生活を送ったかにもよりますし、どういう性格だったかにもよりますし、霊格の高さにもよります。が、何といってもその動機がいちばん問題です。キリスト教では自殺のすべてを一つの悪の中にひっくるめていますが、あれは間違いです。地上生活を自らの手で打ち切ることは決していいことではありませんが、中には情状酌量の余地のあるケースがあることも事実です。

 でも、自殺してよかったと言えるケースはないでしょう。
シルバー・バーチ
 それは絶対にありません。自分の生命を縮めて、それでよかろうはずはありません。しかし自殺した者がみな死後暗黒の中で何千年何万年も苦しむという説は事実に反します。

 自殺行為は霊的進歩の妨げになりますか。
シルバー・バーチ
 もちろんです。

 神は耐え切れないほどの苦しみは与えないとおっしやったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐え切れない苦しみを受けるからではないでしょうか。
シルバー・バーチ
 それは違います。その説明の順序としてまず、これには例外があることから話を進めましょう。いわゆる精神異常者、霊的に言えば憑依霊の仕業による場合があります。が、この問題は今はワキへ置いておきましょう。いずれにせよこのケースはごく少数なのです。大多数は、私に言わせれば臆病者の逃避行為にすぎません。果たすべき義務に真正面から取り組むことが出来ず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることが、その苦しみから逃れるいちばんラクな方法だと考えるわけです。ところが死んでも、というよりは死んだつもりなのに、相変らず自分がいる。そして逃れたはずO責任と義務の観念が相変らず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを造り出して、それが外界との接触を遮断します。そうした状態のまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。
 しかし、すでに述べたように、一ばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今のべた通りそう思惑どおりには行きません。が一方、これはそう多くあるケースではありませんが、動機が利己主義ではなく利他主義に発しているとき、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発しているときは、たとえそれが思い過しであったとしても、さきの臆病心から出た自殺とはまったく違ってきます。
 いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分自身の手で自分の人生を書き綴っているのです。いったん書き記したものはもう二度と書き変えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。
 いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になればかならず光が見えてきます。魂の内奥に潜む勇気が湧き出て来ます。その時あなたはその分だけ魂を開発したことになり、霊界からの援助のチャンスも増えます。背負いきれないほどの荷は決して負わされません。なぜならその荷はみずからの悪業がこしらえたものだからです。決して神が「この男にはこれだけのものを背負わせてやれ」と考えてあてがうような、そんないい加減なものではありません。
 宇宙の絶対的な法則のはたらきによってその人間がそれまでに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷を拵えることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです。


 因果律のことでしょうか。
シルバー・バーチ
 そうです。それが全てです。

 たとえば脳神経が異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へ行けば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪はないと考えてもよろしいでしょうか。
シルバー・バーチ
 話をそういう風にもってこられると、私も答え方によほど慎重にならざるを得ません。答え方次第ではまるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそういう手段に出る可能性のある人を勇気づけているようなことになりかねないからです。
 もちろん私にはそんなつもりは毛頭ありません。いまのご質問でも、確かに結果的にみればノイローゼ気味になって自殺すケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に見てみると、はやりスタートの時点において、私が先ほどから言っている“責任からの逃避”の心理が働いているのです。もしその人が何かにつまづいたその時点で「オレが間違っていた。やり直そう。そのためにどんな責めを受けても男らしく立ち向かおう。絶対に背を向けないぞ」と覚悟をきめていたら、不幸をつぼみのうちに摘み取ることが出来たはずです。
 ところが人間というのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われてきます。ついにはノイローゼとなり、自分で自分がわからなくなっていくのです。問題はスタートの時点の心構えにあったのです。
 
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