古代霊は語る
シルバー・バーチ霊訓より
近藤千雄・訳編 潮文社 
第4章 苦しみと悲しみと ― 魂の試練 ―

 シルバー・バーチとの一問一答 C

 いわゆるアクシデント(偶発事故)というのはあるのでしょうか。
シルバー・バーチ
 非常に難しい問題です。というのはアクシデントという言葉の解釈次第でイエスともノーともなるからです。動機も目的もない、何かわけのわからぬ盲目的な力でたまたまそうなったという意味であれば、そういうものは存在しません。宇宙間の万物は寸分の狂いもなく作用する原因と結果の法則によって支配されているからです。ただその法則の範囲内での自由意志は認められています。しかしその自由意志にもまた法則があります。わがまま勝手が許されるという意味ではありません。従って偶発事故の起きる余地はあり得ません。偶発のように見える事故にもそれなりの原因があるからです。ぜひ知っておいていただきたいのは、法則の中にも法則があり、それぞれの次元での作用が入り組んでいるということです。平面的な単純な法則ではないのです。よく人間は自由意志で動いているのか、それとも宿命によって操られているのかという質問を受けますが、どちらもイエスなのです。自由意志の法則と宿命の法則とが入り組んで作用しているのです。

 病気は教訓として与えられるのだとか、人間性を築くためだとか言う人がおりますが、本当でしょうか。
シルバー・バーチ
 言っていること自体は正しいのですが、「与えられる」という言い方は適切でありません。私どもと同じくあなたがたも法則の中で生きております。そして病気というのはその法則との調和が乱れた結果として起きるのです。言ってみれば、霊として未熟であることの代償として支払わされるのです。しかしその支払にはまた別に補償という法則もあります。物ごとには得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観点からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。
 教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で表われることもあるわけです。人生は光と陰のくり返しです。片方だけの単調なものではありません。よろこびと悲しみ、健康と病気、晴天とあらし、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。
 というのは、その双方に神の意志が宿っているからです。良い事にだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知って下さい。


 死体は火葬にした方がいいでしょうか。
シルバー・バーチ
 絶対、火葬がよろしい。理由にはいろいろありますが、根本的には、肉体への執着を消す上で効果があります。霊の道具としての役割を終えた以上、その用のなくなった肉体のまわりに在世中の所有物や装飾品を並べてみたところで何になりましょう。本人を慰めるどころか、逆に、徒らに悲しみやさみしさを誘うだけです。
 人間は生命の灯が消えてただの物質に帰した死体に対しあまりに執着しすぎます。用事は終わったのです。そしてその肉体を使用していた霊は次のより自由な世界へと行ってしまったのです。死体を火葬にすることは、道具としてよく働いてくれたことへの最後の儀礼として、清めの炎という意味からも非常に結構なことです。同時に又、心霊知識ももたずにこちらへ来た者が地上の肉親縁者の想いに引かれて、いつまでも墓地をうろつきまわるのを止めさせる上でも効果があります。
 衛生上から言っても火葬の方がいいといえますが、この種の問題は私が扱う必要はないでしょう。それよりもぜひ知っていただきたいことは、火葬までに最低三日間は置いてほしいということです。というのは、未熟な霊は肉体から完全に離脱するのにそれくらい掛かることがあるからです。離脱しきっていないうちに火葬にするとエーテル体にショックを与えかねません。
 
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