古代霊は語る
シルバー・バーチ霊訓より
近藤千雄・訳編 潮文社 
第7章 心霊治療

 除霊について

 あとで世界的心霊治療家のハリー・エドワーズ氏及びその助手だちとの一問一答を紹介しますが(割愛します――なわ)、その前に、心霊治療に関してかならず出される疑問、すなわち日本の治療家はまず第一に除霊とか供養といったことから始めるのに西洋では皆無といっていいほどそれが聞かれないのはどういうことか、という点について私見を述べてみたいと思います。

 (中略――なわ)

 さて問題は除霊すれば因縁が切れるかということですが、今の例でもわかる通り、霊というのは波長の原理でひっついたり離れたりするもので、人間の方はむろんのこと、霊の方でも自分が人間に憑依していることに気づいていないことすらあります。因縁という用語はもとは因縁果という言葉から来たもので、因がもろもろの縁を経て果を生むという意味だそうです(高神覚昇『般若心経講義』)。私は心霊的にもその通りだと考えます。
 つまりシルバー・バーチのいう因果律は絶対的に本人自身のもので、それを他人が背負ったり断ち切ったりすることは出来ません。それはシルバー・バーチが繰り返し強調しているところですが、その因と果の間にいろんな縁が入り込んで複雑にしていきます。病気の場合の因縁がそのよい例で、病気になるのは本人に原因があるわけですが、その病気が縁となって波長の合った霊が憑依し、痛みや苦しみを一段と強くしているのだと私は解釈しています。
 従ってその霊を取り除けばラクにはなりますが、それで業を消滅したことにはならない。もちろん霊が取り除かれた時が業の消える時と一致することもあり得ます。いわゆる奇蹟的治癒というのはそんな時に起きるのだと思われますが、除霊さえすれば事が済むというものではないようです。
 次に、西洋では病気にまつわる因縁霊の観念はないのか、除霊の必要性はないのか、ということですが、数こそ少ないのですが、それを実際にやっている人がいます。米国のカール・ウィックランドという人が最も有名です。
 この人は職業は精神科医ですが、奥さんが霊能者であるところから、主として精神異常者に憑依している霊を奥さんに憑依させて、間部氏と同じように、こんこんと霊的真理を説いて霊的自我に目覚めさせるやり方で大変な数の患者、と同時に霊をも、救っております。それをまとめたのが、Thirty Years Among the Deadで、田中武氏が訳しておられますので一読をおすすめします。(『医師の心霊研究三十年』日本心霊科学協会発行)
 ウィックランド氏の場合は主として精神異常者を扱っておりますが、当然身体的病気の場合にも似たような霊的関係があるはずであり、本来なら日本式の供養のようなものがあってもいいはずなのですが、それが皆無とは言わないまでも、非常に少ないという事実は、私は民族的習慣の相違に起因していると考えております。
 たとえば浅野和三郎氏が「幽魂問答」と題して紹介している福岡における有名なたたりの話は、数百年前に自殺した武士が自分の墓を建立してもらいたい一心から起こした事件であり、西洋では絶対と言ってよいくらい起こり得ない話です。日本人は古来、死ねば墓に祀られるもの、供養してもらえるもの、戒名が付くものという先入観念があるからこそ、そうしてもらえない霊が無念残念に思うわけで、本来は真理を悟ればそんなものはすべて無用なはずです。いわゆる煩悩にすぎません。
 シルバー・バーチはある交霊会で供養の是非を問われて、「それはやって害はなかろうけど、大して効果があるとも思われません」と述べておりますが、シルバー・バーチの話は常に煩悩の世界を超越した絶対の世界から観た説であることを認識する必要があります。つまり永遠の生命を達観した立場からの説であって、私は、洋の東西を問わず、供養してやった方がいい霊はかならずいる、ということを体験によって認識しております。煩悩の世界には煩悩の世界なりの方法手段があると思っております。
 また、民族によって治療法が異るように、個々の治療家によっても治療法や霊の処理方法が異なってくるはずであり、供養しなくても済む方法があるのかも知れない、という認識も必要かと思われます。この辺が心霊的なものが一筋縄ではいかないところです。
 
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