古代霊は語る
シルバー・バーチ霊訓より
近藤千雄・訳編 潮文社 
第9章 心理の理解を妨げるもの

 シルバー・バーチと牧師の論争

 ……前半部分は大幅に割愛しました。(なわ)……

 こうした対話から話題は苦難の意義、神の摂理、と進み、その間に細かい問題も入りますが、それらはすでに前章までに紹介したことばかりなので割愛します。ともかくここで第一回の論争が終り、何日かのちに再びその牧師が出席して第二回目の論争が始まります。最初の質問は、地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能か否か、すべての人間を愛することが出来るか否かといった、いかにも聖職者らしいものでした。シルバー・バーチは答えます。

シルバー・バーチ
 それは不可能なことです。が、そう努力しなくてはいけません。努力することそのことが、性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当ることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間でないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれて来るのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです。


牧師
 イエスは「天の父の完全である如く汝等も完全であれ」と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか。

シルバー・バーチ
 だから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活における最高の理想なのです。すなわち内部に宿る神性を開発することです。


牧師
 私がさっき引用した言葉はマタイ伝第五章の終りに出ているのですが、普遍的な愛について述べたあとでそう言っているのです。また「ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝等は完全であれ。神の子なればなり」と言っています。神は全人類を愛してくださる。だからわれわれも全ての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じるとお思いですか。

 この質問にシルバー・バーチは呆れたような、あるいは感心したような口調で、少し皮肉も 込めてこう言います。

シルバー・バーチ
 あなたは全世界の人間をイエスのような人間にしようとなさるんですね。お聞きしますが、イエス自身、完全な地上生活を送ったとお考えですか。


牧師
 そう考えます。完全な生活を送ったと思います。

シルバー・バーチ
 一度も腹を立てたことがないとお考えですか。


牧師
 当時行われていたことを不快に思われたことはあると思います。

シルバー・バーチ
 腹を立てたことは一度もないとお考えですか。


牧師
 腹を立てることはいけないと説かれている、それと同じ意味で腹を立てたことはないと思います。

シルバー・バーチ
 そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことを正当化できるかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなたがたはどんなことでも正当化なさるんだから……。


 ここで列席者の一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を持ち出します。

シルバー・バーチ
 私が言わんとしているのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチを持って追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。怒るということは人間的感情です。私が言わんとするのは、イエスも人間的感情を具えていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐ時、イエスもまた一個の人間であった――ただ普通の人間より神の心をより多く体現した人だった、という風に考えることが大切です。ありもしないことを無理やりにこじつけようとするのはよくありません。わかりましたか。


牧師
 わかりました。

シルバー・バーチ
 誰の手も届かないところに祭り上げたらイエス様がよろこばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり自分たち人間と同じ人の子だったと見る方がよほどよろこばれるはずです。自分だけ超然とした位置に留まることはイエスはよろこばれません。人類と共によろこび、共に苦しむことを望まれます。一つの生き方の手本を示しておられるのです。イエスが行なったことは誰にでも出来ることばかりなのです。誰もついて行けないような人だったら、せっかく地上に降りたことが無駄だったことになります。


 このあと牧師が自由意志について質問すると、すでに紹介した通り各自に自由意志はあるが、あくまで神の摂理の範囲内での自由意志であること、つまりある一定のワク内での自由が許されているとの答えでした。続いて罪の問題が出され、シルバー・バーチが結論として、罪というものはそれが結果に対して及ぼす影響の度合に応じて重くもなり軽くもなると述べると、すかさず牧師がこう反論します。

牧師
 それは罪が知的なものであるという考えと矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります。

シルバー・バーチ
 罪は罪です。からだが犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれもみな罪は罪です。あなたはさっき衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこから来ると思いますか。


牧師
 思念です。

シルバー・バーチ
 思念はどこから来ますか。


牧師
(少し躊躇してから)善なる思念は神から来ます。

シルバー・バーチ
 では悪の思念はどこから来ますか。


 牧師は「わかりません」と答えますが、実際は「悪魔から」と答えたいところでしょう。シルバー・バーチはそれを念頭において語気強くキリスト教の最大の欠陥をつきます。

シルバー・バーチ
 神は全てに宿っております。間違ったことの中にも正しいことの中にも宿っています。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも神は宿っているのです。お分りになりますか。神とは「これとこれだけに存在します」という風に一定の範囲内に限定できるものではないのです。全宇宙が神の創造物であり、そのすみずみまで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って、これは神のものではない、などとは言えないのです。日光は神の恵みで、作物を台なしにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。神は全てに宿ります。あなたという存在は、思念を受けたり出したりする一個の器官です。が、どんな思念を受け、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違ってきます。もしもあなたが、あなたのおっしゃる「完全な生活」を送れば、あなたの思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。そうでしょう?


牧師
 おっしゃる通りだと思います。では、そうした煩悩ばかりを抱いた人間が死に際になって自分の非を悟り、「信ぜよ、さらば救われん」の一句で心にやすらぎを覚えるというケースがあるのをどう思われますか。

 この質問はキリスト教のもう一つの重要な教説である贖罪(しょくざい)説につながってきます。イエス・キリストへの信仰を告白することで全ての罪が贖(あがな)われるという信仰が根強くあり、それが一種の利己主義を生む土壌になっております。シルバー・バーチは折にふれてその間違いを指摘していますが、ここでもイエスの別の言葉を二、三引用したあと、こう語ります。

シルバー・・バーチ
 神の摂理は絶対にごまかせません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それくらいのことでいっぺんに洗い落せると思いますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。「すみませんでした」のひと言で全てが許されるとしたら、果たして神は公正と言えますか。如何ですか。


牧師
 私は神はイエス・キリストに一つの心の避難所を設けられたのだと思うのです。イエスはこう言われ……。

●シルバー・バーチ
 お待ちなさい。私はあなたの率直な意見を聞いているのです。率直にお答えいただきたい。本に書いてある言葉を引用しないでいただきたい。イエスが何と言ったか私にはわかっております。私は、あなた自身はどう思うかと聞いているのです。


牧師
 たしかにそれでは公正とは言えないと思います。が、そこにこそ神の偉大なる愛の入る余地があると思うのです。

 そこでシルバー・バーチが、もしも英国の法律が善人と罪人とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思うかと尋ねると、牧師は自分はそうは言っていないと弁明しかけますが、再びそれをさえぎって――

シルバー・バーチ
 自分がタネを蒔き、蒔いたものは自分で刈り取る。この法則から逃れることは出来ません。神の法則をごまかすことは出来ないのです。


牧師
 では悪のかぎりを尽くした人間が今死にかかっているとしたら、私はその人間にどう説いてやればいいのでしょう。

シルバー・バーチ
 シルバー・バーチがこう言っていたとその人に伝えて下さい。もしもその人が真の人間、つまりいくばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになれるはずです。自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持ちがどこかにあるとしたら、その人はもはや人間ではない。ただの臆病者だと、そう伝えて下さい。


牧師
 しかし罪を告白するということは、誰にでもは出来ない勇気ある行為だとは言えないでしょうか。

シルバー・バーチ
 それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、あえて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならばその結果に対して責任を取らなくてはいけません。元に戻す努力をしなくてはいけません。紋切り型の祈りの言葉を述べて心が安まったとしても、それは自分をごまかしているに過ぎません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばならないのです。それが神の摂理です。


 ここで牧師がイエスの言葉を引用して、イエスが信者の罪を贖ってくれるのだと主張しますが、シルバー・バーチは同じくイエスの言葉を引用して、イエスは決してそんな意味で言っているのではないと説きます。するとまた牧師が別の言葉を引用しますが、シルバー・バーチも別の言葉を引用して、罪はあくまで自分で償わなくてはならないことを説きます。そしてキリスト教徒が聖書一つにこだわることの非を諭して次のように語って会を閉じました。

シルバー・バーチ
 神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなたがたもぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する――それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変らず罪として残っております。いいですか。それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることは出来ないのです。


 (以下割愛します――なわ)
 
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