なぜ世界の人々は
「日本の心」に惹かれるのか
 
呉善花・著 PHP研究所
 

29 茶の湯の原風景

 世界的な日本ブームの高まりからのことだろう、外国人から日本文化について質問されることがとても多いと、知り合いのビジネスマンたちから聞かされることがしばしばある。ある人は西洋人から「茶の湯とはどういうものですか?」「茶の心とはどんな精神性なんですか?」と問われて返答に困り、「一口には説明できない、よい参考書を送るので読んでほしい」と答えたそうである。
 その人が「よい参考書」といったのは、岡倉天心が英文で書いた『茶の本』(THe Book of Tea)である。この本は、今から百年ほど前に書かれた、西洋人向け茶の湯の啓蒙書といってよいだろう。明治39年(1906)にアメリカで出版されて以後、西洋言語圏の人々の日本文化理解に多大な役割を果たし続けてきた本である。
 『茶の本』はその冒頭で、茶は初めは薬として用いられたが後に飲料となり、中国では8世紀に優雅な遊びの一つとなって詩歌の領域にまで浸透し、日本では15世紀に一種の「審美的な宗教」、つまり茶道にまで高めたと述べている。天心はこれに続けて、この「審美的な宗教」としての茶道を、簡潔に次のように解説している。
「茶道とは俗事に満ちた日常生活の中にあって、美を崇拝することに基づく一種の儀式なのである。それは純粋と調和、相互愛の神秘、そして社会秩序のロマンチシズムを人々の心に植え付ける。茶道の本質は『不完全なもの』を崇拝することにある。いわゆる人生というこの度し難いものの中に、何か可能なものを成就しようとするやさしい試みなのであるから」
 以下、茶の湯が中国にはじまり、日本に伝えられて「審美的な宗教」にまで高められていった歴史が、その習慣や作法が、その心や理念のあり方が、筋道立った書き方で巧みに描かれている。
 やさしい入門書ではない。とくに茶の湯の体験がまったくない人には、そう簡単に「なるほど」と理解しながら読み進められる本ではない。私は少しばかりの体験を重ねた後に読んだので、感覚的な理解が得やすく、大いに啓蒙されることになった。
 茶の湯の体験がないとわかりづらいといったが、もっと重要なのは喫茶の習慣である。韓国では四百年ほどの間、茶を飲む習慣が絶えてしまっていたので、私は日本に来てから煎茶や番茶を飲む習慣を身につけたのである。私の体験からいえば、日常的な喫茶の生活体験が原点になければ、『茶の本』は高級な理念や宗教や美学を説く、高度な知識人向けの難しい本ということになってしまうと思う。
 茶の湯は中国にはじまり、日本で「審美的な宗教」にまで高められ、天心が述べたような高度な精神性をもつ。それはその通りだろう。そこで茶の湯は、日常的な喫茶の習慣からは一段も二段も飛び抜けた、きわめて高い次元での文化だとばかり理解されがちとなる。私も当初はそうした理解から緊張して茶の湯に接したが、お師匠さん方が示される姿勢はどうもそうではないのだ。その采配に従っているうちに、しだいに原点というか、人々と集って茶を楽しみながら憩うひととき、その原風景とでもいったらよい場面をしきりに喚起させられるのである。
 浮かんでくる場面は、知識で得た歴史的な起源とは別のものだ。とくに根拠はないのだが、農民や漁民たちが、また町の職人さんたちが、一仕事を終えて道具置き場のような所に集まって円座を組み、一服のお茶を大事そうにみんなで廻し飲みしている――そんな光景が浮かんでくるのである。私にそのままの体験はないのだが、私は小さい頃、故郷の済州島の海女さんたちが海辺で、そうやってお湯をすすり合うすぐそばで、走り回るようにして遊んでいた。
 日本に来たばかりの頃、厳冬期に数名の人たちとコタツを囲み、勧められるままに熱いお茶をすすり、「なんてにがいの?」と感じつつも、心からほっと一息ついたときのことが忘れられない。「お茶を飲む習慣っていいものだなあ」と感じて、体中に柔らかな情緒が心地よく広がっていくのを感じた。あの体験が私にとっての茶の湯の原風景である。
 お茶を飲む習慣は、東洋、中東、ヨーロッパ諸国をはじめとして、世界の至るところにある。でもそれが、「審美的な宗教」とまでいわれる領域に入っていったのは日本だけのことだった。しかもその審美の対象は、天心がいうように「純粋・完全なもの」ではなく「不完全なもの」である。それはつまり、どうにもコントロールしようのない人生というもののなかに、「何か可能なものを成就しようとするやさしい試み」なのである。
 天心は先の文章に続けて次のようにいっている。
「茶の原理は普通の意味における単なる審美主義ではない。というのは、茶道は倫理や宗教と合して、人間と自然に関する我々の一切の見解を表現するからである」
 つまるところ、茶の湯とは、日本人の人間観、自然観の総合的な美の表現なのだという。原風景のイメージをしっかり浮かべながら聞き取るべき言葉だろう。
 
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