自分の品格
渡部昇一・著 三笠書房 

 “日々の苦痛”を忘れさせてくれる貴重な話

 さて、人生の紆余曲折の中で、志がくじけそうになることは幾度もあるだろう。そのようなときには、理想を実現していったいろいろな偉人たちの伝記を読むことだ。彼らが成功を勝ち取るまでの道程には、並々ならぬ苦労が隠されている。それらを克服していく姿を知るだけで力づけられるものである。
 たとえば、若い頃から勉強が好きだったのだけれど、会社に入って仕事が忙しくて勉強どころではなくなった、などという人は、伊能忠敬の話を読めばいい。
 伊能忠敬と言えば、はじめて正確な日本地図を作成した人として有名だが、どんな人生を送ったのかについてはあまり知られていない。日本全国を測量し続けたという事実だけから考えると、幕府の役人か何かで、若い頃からそのような仕事に携わっていたのだろうと思ってしまう人もいるかもしれない。
 しかし事実はまったく違うのだ。彼が地図の作成に取りかかるのは、なんと50歳で隠居した後なのだ。人生50年と言われていた時代だから、今の50歳などとは違い、もう天寿を全うしていてもおかしくはない年だ。このような高齢になってから、彼は測量を始めたのである。
 伊能忠敬は、18歳のときに酒造業を営んでいた伊能家に婿養子に入っている。ところがこの伊能家は、かつては下総の佐原で第一の名家だったのだが、忠敬が婿養子として入ったときには負債をかかえてほとんど没落寸前にまで追い込まれていた。養子で入った忠敬は一所懸命に働いて、酒造業を立て直す。そして店はもうまったく心配いらないというような状態にしてから長男に家を譲り隠居するのだ。時に忠敬50歳。そして江戸へ出て天文学を学び始めるのである。しかも彼の先生は、19歳も年下の高橋至時という人だった。
 天寿を全うしてもいい年頃になって、故郷を離れて江戸へ出、息子よりも年下の若造に学問を一から学ぶなど、並大抵のことではできない。店の仕事に忙殺されているときでも、本格的に学問をしたいという気持ちを忘れなかったのだろう。あるいはまた、暇を見つけてはゴツゴツ勉強していたのかもしれない。いずれにせよ、忠敬はそういう気持ちを抑えながら家業に精を出してきた。いつまでも目標を見失わなかったのだ。
 だから、隠居してやっと好きな勉強が始められるとなったとき、それこそ天にも昇る気持ちだったのではないかと思う。交通の手段もないような辺鄙な場所へ測量に出かけるなど、年を食えば食うほど、大変な労働になる。それなのに彼は、73歳までずっと測量をし続けたのである。
 このようなとてつもない人の人生を知れば、仕事が忙しくて勉強に手がつかないなどといったグチなど言っていられなくなるというものだ。
 伊能忠敬のような人物には、なろうと思ってもなかなかなれるものではないかもしれない。けれども、最初からなれないと諦めていたのでは、足元にも及ばないだろう。少しでも近づく努力をすれば、忠敬の何分の一かにはなる可能性も出てくるのである。
 忠敬と同じように、50歳の声を聞いてから芽を出した人は他にもいる。三井財閥を築いた三井家初代の三井高利という人もそうだった。
 彼は伊勢の松坂の人で、最初の頃は江戸へも出してもらえなかった。家業は母親が仕切っていて、八男の彼は母親の手伝いのようなことしかやらせてもらえなかった。長男であ
る兄はすでに江戸へ出てバリバリ仕事をしていた。
 後に高利にも江戸に奉公するチャンスがめぐってきて、27歳で支配人になる。28歳で松坂に戻ってきて大名貸などの金融業や米商を営んだ後、ようやく江戸に自分の呉服屋を出したとき、高利は50を過ぎていた。しかし彼はその年から呉服屋の仕事に精を出し、あの大三井の礎をつくっていったのである。
 このような偉業を成し遂げた人たちの伝記はたくさんある。学問の世界なら学問の世界の、三井高利のような実業界なら実業界の、といった具合に、さまざまな分野で名を成した人たちの伝記を読むのである。そうすれば、彼らの苦悩や辛酸が伝わってきて、自分の悩みなどちっぽけなものに思われ、元気も出てくるというものだ。
 
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