自分の品格
渡部昇一・著 三笠書房 

 男が逆立ちしてもできない“女の特権”

 子供の頃からある分野に天才的な才能を発揮する人もいるし、大金持ちの家に生まれてくる人もいる。生まれつき容姿端麗で、とびっきりスタイルもよく、テレビや映画に引っ張りだこの人もいる。
 こういった人を羨んで、自分もそうなりたいと思っても、それはできない相談だ。自分が天才や大金持ちや美人に生まれなかったのは、運命としか言いようがないことなのだから、これはあきらめるより他に手がない。アインシュタインは非常に有名で尊敬されているから、自分もアインシュタインのような天才物理学者になろうと思っても、脳を取り換えるわけにはいかないのだから、普通の頭脳の持ち主では無理だ。数学者になりたいと言ったって、数学ができる頭がなければ、どだいなれるわけがないのだ。そういうことがわからずに、ただゴリ押ししていると、無駄に時間ばかり浪費して、結局は何者にもなれずに人生を終わってしまうことにもなりかねない。
 とくに現代社会においては、男女で区別するような職種はどんどん少なくなっている。その結果、男として生まれたからとか、女として生まれたからという運命的なことがわかりにくくなってしまった。そのために不幸な選択をする場合も出てきているのだ。
 たとえば、昔のようにわらじをはいて蓑笠つけて出かけるというような時代には、馬に乗って出かけるのは男と相場が決まっていたから、男女の仕事の区別もわかりやすかった。ところが、自動車が発明され、電車が発明されるようになると、これらのものは男が運転しようが女が運転しようが同じように動くわけだから、自動車を動かすのは男の仕事だと決めるわけにはいかなくなった。こうして、女性もどんどんこのような仕事に進出してくるようになったのである。男女差を考えなくてもいい職場が膨大にできてきたのだ。女性もそういう仕事に携われるようになったという、そのこと自体は非常にいいことだと思う。私にもかわいい娘がいる。
 けれどもその結果、とくに女性のほうは、あたかも男と女とにはまったく差がないと考える風潮が生まれてしまったのだ。なお悪いことに、一部の女性評論家の中には、そのことを声高に唱道する人まで現われてきてしまっている。そうではないのだ。もともと男と女とには運命的に差がある。そのことをまず理解しておかなければならないのだ。
 40万年とも言われている人類の歴史の中で、妊娠し、子供を出産し育てるという大事業をやってきたのは他でもない女性である。男性には逆立ちしてもできることではない。ここに厳然とした差があるのだ。だから、これらの妊娠、出産、育児を女性たちが自分の手でやろうと思うのなら、そこに仕事とはまったく違った喜びや可能性があることを洞察すべきで、また実際にそこには仕事では知り得ない楽しみや、やりがいが数多く存在するのである。
 それを、男女に差はないのだから、両方とも求めていいではないかと言うのは極論すぎると思う。よっぽど献身的に面倒を見てくれるおばあちゃんでもいないかぎり、一人では無理だと思うべきだ。つまり女性の場合には、最終的には、仕事をとるか、育児をとるか選択しなければならない局面があるということだ。近代文明というものが、男と女の差をぼやかしてしまっているだけで、男と女とは本来的に違うものなのである。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]