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この“発奮剤”があって人は一人前に それは、女性についても同じである。 かつては「何々の母」という形で、理想とされる女性像、求められる母親像というのがちゃんとあった。 「中江藤樹の母」というのもそうだ。中江藤樹という人は江戸初期の儒学者で、近江聖人とも呼ばれた高徳の、日本における陽明学派の始祖ともされている人だ。 藤樹は近江(滋賀県)の生まれなのだが、小さな頃に祖父に引き取られて、伊予の大洲(愛媛県)で生活をしていた。学問が非常に好きで、またよくできたのだが、近江にいる年老いた母のことが常に気がかりだったという。後に、老母を養うことを理由に脱藩し、近江に帰ることになるのだが、それにまつわる逸話が残されている。 藤樹のいる伊予とは違い、母の住む近江は冬はことのほか寒い。井戸端での水仕事で老母の手にひびやあかぎれができていはしないかと心配した藤樹は、冬のある日とうとう、思い余って母を訪ねるのである。母のためにあかぎれの薬を買って急ぎ故郷へ帰った藤樹は、雪の降りしきる戸外でつるべ仕事をしていた母にその薬を差し出していたわり、肩を抱いて家の中へ入ろうとする。ところが母は、 「あなたは学問をするために生まれて来た人だ。母を訪ねる暇などないはずだ。すぐに帰りなさい」 と、薬も受け取らず、家にも入れてくれずに藤樹を追い返してしまうのだ。 母に諭され、雪深い道をとぼとぼと帰っていく藤樹の後ろ姿を、老母は涙しながら見送るのである。辛い別れでありながら、母親の子を思う気持ちを理解した藤樹は、その後勉学に励み、当代一流の儒学者となる。そしてその評判は、日本全国津々浦々に鳴り響いていくのであった――このような話を聞かされると、女の子たちは、このような母親にならなければ、と考えたものである。 この話は、当時の国定教科書にも収められていたから、私ぐらいの年の人なら誰でも知っているのだが、その他にも、知られていないかもしれないが母親像についての逸話はたくさんある。 大正から昭和期にかけての政治家で、初代の自民党総裁となった鳩山一郎という人がいる。この人の母親は鳩山春子といって共立女子職業学校(現共立女子学園)を創設した女傑なのだが、奥さんの鳩山薫も義母の後を継いで共立女子学園の理事長をやった強者だ。この鳩山薫の話が面白い。時代が時代だけに、当時、鳩山一郎の周囲には、赤坂の芸者さんだとか何だとか、わけありの女性がいっぱいいて話題になったりしていた。あるとき、新聞か雑誌の記者が、薫女史に夫一郎のそのあたりの事実関係について突っ込んだ質問をしたというのだ。そのとき、薫女史は微動だにせず、 「私は家庭のことと、子供の教育で手一杯ですから、主人と遊んでくれる女性が必要です。だから、一所懸命遊んでもらっています」 と答えたというのである。別に不倫を推奨するわけではないが、こういう芯と品格を持った母親だと、家の中に波風は起きないと思う。子供もグレたりはしないだろう。確かにその息子はよくできて、大蔵省の事務次官になり、後に政界に入った。 それを、父親の行状に母親がすぐに目くじらを立て、「お前のお父さんは、遊んでばかりいてだらしない」「あんな父親になるんじゃないよ」などと悪口をたらたら並べるようでは、家庭はいつもごたごたしてしまう。これでは子供はすくすく育っていかない。 人生に目標や理想を見出す方法として、伝記を再評価してもよいのではないか。 |
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