自分の品格
渡部昇一・著 三笠書房 

 法律が家庭の中まで入り込まざるを得ない社会

 では平等の弊害についての反省があるとはいえ、いまだにアメリカで子供の権利について叫ばれているのはなぜなのか。
 それは、アメリカにおいては日本とは比較にならないくらい家庭が崩壊しているからである。実際、今アメリカでは全家庭の半分以上の家庭が崩壊してしまっている。家庭崩壊の原因の最も典型的なものの一つが、父親による子女への暴行だ。アメリカでは離婚率が非常に高いため、離婚した者どうし、今風に言えばバツイチどうしの結婚もまた多い。そうすると、父親と血のつながらない女の子が家の中にいたりするのだ。この女の子に父親が暴力をふるったり、性的な行為に及んだりする事件が続発しているのである。
 アメリカで家庭内暴力や父親による子女の強姦事件で裁判になったケースは1年間になんと3百万件を超えている。ただしこれは裁判沙汰になって公になった数だから、実際にはこの数倍はあるだろう。日本では考えられない数である。
 アメリカのように、家庭内暴力が日常茶飯事に起こるようになると、従来のように親と子というつながりで家庭を考えることができなくなる。
 これまでの自然的秩序では、家庭の中で子供を守るのは親の役目で、その関係の中に外部の者が入ることはタブーとされてきた。しかし、アメリカほど家庭崩壊が進んでしまうと、従来の自然的秩序に任せておくわけにはいかなくなる。何らかの外部的圧力で親の暴力を阻止しなければ子供は守れない、という状況にまで来てしまった。放っておくと子供たちは悲惨な目に遭うばかり、というやむを得ない事情から、法律が家庭の中まで入り込み、親の虐待を阻止しようという風潮が生まれてきたのである。
 法的に子供を守るためには、法的には子供にも大人と同じ権利を与える必要がある。法的に孤立した存在だから、家庭内といえどもその権利を奪ってはならないということである。こうして子供たちは法律によって守られるようになった。しかし、大人と同じ法的権利を持ったがために、今度は逆に厳しい重荷を背負うことになった。つまり、子供でも重い罪を犯せば、大人と同じように裁かれ、死刑を宣告されてもそれはしかたがないということである。
 法によって守られるということは、法によって裁かれることと表裏一体なのである。平等を推し進めていくとこのように、死刑を受ける義務をも子供に課せざるを得なくなるのだ。アメリカは苦渋の選択をしたが、今度は反省を迫られているのである。
 このようなさまざまな問題が発生してきているにもかかわらず、日本では未だに、何の疑問もなく平等を神棚にそなえる人たちがいる。それがまるで人類最高の理念のごとくに讃える人たちがいるのだ。彼らは、上っ面のアメリカの繁栄しか目に入らず、アメリカのかかえている問題、アメリカ社会の根底にある苦しみがわからないのだ。
 だいいち、アメリカと日本とではかかえる問題がまったく違う。アメリカではすでにきわめて多くの家庭が崩壊しており、その崩壊を立て直す手段として法律に頼ったのだ。べつに大人と子供が平等に扱われているといって喜んでいるわけではない。こういう国と、日本のようにいまだ自然的秩序がある程度は守られており、大体において未成年者は親が責任を持つという雰囲気を伝統とする国とを、いっしょくたにしてはいけないということなのである。
 
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