輪廻転生 
驚くべき現代の神話
J・L・ホイットン/J・フィッシャー著
片桐すみ子訳 人文書院
 
 

 第六章 宇宙という教室

 喜びも悲しみも
 それを経験するよりずっとまえに
 私たちが選びとったものなのだ
        カーリル・ギブラン

 人間が成長していくうえで、進歩のきっかけとなる契機は不可欠である。契機がなければ学ぶこともないだろうし、転生の旅の途上に生じる無数の経験をつうじて、魂を前進させてくれるものもなくなってしまう。この推進力、起動力はすべて自分自身が生みだしたものである。これを、もうすっかり英語に根をおろしたサンスクリット語で、「カルマ」という。
 カルマとは、個々の人みずからが、自分の欲求や態度や行動によって生涯から生涯へと設定してきたものである。カルマを受けいれると、人間は宇宙規模のチェスゲームでの単なるちっぽけなひとつのコマにすぎない、という考えかたはできなくなる。カルマを受け入れることは、世界は理にかなった公正さが支配する舞台である、と認めることでもある。どの人の境遇もすべて、過去の行為の直接の結果として生じたものだとすれば、不公平や不平等、不運はありうるはずがない。カルマは自己責任を因果の法則にむすびつけるものである。あいつぐ人生で行なってきた所業によって、自分のつぎの人生と運命の外見や中身が決まっていくのだ。
 「過去を知りたければ自分の現在の人生を見なさい。未来が知りたければ自分の現在を見なさい」と釈迦もいっている。
 むかしから言われているように、カルマとは絶え間なく生れ変わりを続けさせ、つぎの転生の生活環境を決める因果応報のシステムである。古人は、「眼には眼を」の原理でカルマから解放される――すなわち人は遅かれ早かれ自分が他人を喜ばせたり悲しませたりしたのと同じことを、そっくりそのまま自分も体験することになる、と教えてきた。だがホイットン博士の被験者によれば、人生をそんなふうに解決する必要はないのだ。カルマとは本質的には学ぶことだ、とバルドを訪れた人々は強調する。カルマは魂を発達させる可能性をもつすべてのものに働く原則である。学ぶことは不可欠であるが、どのように学ぶか――自分も代わりにひどい目にあうか、同じような苦労をするか、知恵をめぐらして洞察するか――はさほど問題ではない。まちがいなく、そのプロセスにとって基本となるのは奉仕である。「他人を助けることは自分自身のため」というのはカルマの法則のいちばんの原則なのだ。「互いに愛せよ」とイエス・キリスト・もいっている。貯めこんできたカルマを減らすためにはどんな方法がいちばん手っ取り早いかを探しもとめる人にとって、これ以上のアドヴァイスはないであろう。
 ヒンドゥー教や仏教の聖典には、人類はカルマの革ひもによって生れ変わりの輪にしばりつけられていると描かれているが、ホイットン博士の被験者は、カルマの働きはもっと教育的なものだという見方をしている。全人類が宇宙の学校で学んでいるところを思い描いてみよう。そこで私たちは幾多の人生という教育課程にわたってつぎつぎと授業を受けるのだ。私たちひとりひとりは、生徒であり、先生でもある。そして、自分の行為を通じて、自分がどのコースをとって学ぶかを決定することができる。これは、「行なうごとくに天はなり、望むごとくに運命は形づくられる」という、ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッドの言葉と本質的に同じである。
 個々の試練を通じて向上しようと魂が努力した結果、カルマのパターンが形づくられる。つぎの転生を選択し計画するうえで、これらのパターンの及ぼす影響は大きい。中間世の状態で、魂は多くの生涯にわたる自分の行いを回顧し、つぎの人生において、ある行為の決着をつけるか罪ほろぼしをするかを選ぶ。過去のあやまちがバルドにいる魂のまえに立ちはだかる間は、肉体をもった存在にもどる――多くの場合カルマをつくった相手とめぐりあう――ことによってしかカルマの調整はできない。
 歴史的にみると、カルマについての考えかたは過去五千年間のうちに大きく変貌をとげてきた。古代エジプト人から伝わった時点では、カルマの報いとは悪業に相応の報いを与える道徳の会計簿の、呵責ない清算を象徴するものだった。「汝の行いは変じて汝の裁きとなる」と紀元前二千六百年の昔に書かれた『プターホテプの教え』の二十八節にある。旧約聖書でも新約聖書でもこれと同じように強硬であり、さらに強い復讐志向さえみられる。「ヨハネの黙示録」十三章十節には、「天をとりこにしようとする者は自らもとりこにされるであろう。天を剣で殺す者は自分も剣で殺されねばならない」と書かれている。
 イエス・キリストの死後何世紀も経ると、古代の法則の解釈はしだいに複雑なものになっていった。キリスト教的グノーシス派やヘブライ人のカバラ研究家たちはカルマを償いの法則として理解するにいたった。人を殺した者は必ずしも同じような状況で死を宣告されるわけではないが、何らかの方法でその行為のうめあわせをするよう期待されていた――来世では、死にいく者や不具者の世話をするためにこの世に戻ることになるかもしれない、といった具合に。
 三つ目は、今日にまで及んでいる解釈で、中世ヨーロッパの神秘主義にその源を発すると考えられるものだ。この解釈によれば、カルマは単に学びのプロセス、すなわち試行錯誤をくりかえして少しずつ知識を吸収する「スパルタ式の学校」ということになっている。殺人の罪を犯せばそれをきっかけにいろいろな事件が設定されるが、そのため必ずしも人殺しの犠牲者になったり、すすんで償いをするよう強制されたりはしない。どんな形ではねかえってくるにしても、その結果は殺人者にこう教えるであろう。そんなことをしては我が身を破滅させるだけであり、他人の肉体を破壊することによって単に自分自身の精神的発達を遅らせたにすぎないのだ、と。
 ホイットン博士の被験者たちの前世の調査記録には、これら三つの解釈すべてが反映される傾向にあり、「眼には眼を」式のものは、とくに個人の未発達の段階の証言に目立つ。カルマとは、自分の性質を高めていくための手段として自分自身が創りだしたものだ、と中間世に連れていかれた被験者たちは語っている。彼らがくりかえしトランス下で力説した点は、不完全さを取り除き、さらに成長をすすめていくためには、一定の体験を経ねばならない、ということである。これらの経験の取り扱い方いかんで進歩の度合いが決まり、もし学習が完了しなければ同じ状況をくりかえさなくてはならない。宇宙の教室では、習うより慣れよ、というわけだ。

 (中略)

 心身の障害やあらゆる個人の悲劇は、すべてカルマのなせるわざである。道徳的欠陥も、もつれたり抑圧されたりした感情も、将来転生したとき、病気や精神的外傷、恐怖症など、いろいろな障害の形をとってあらわれてくる。催眠は特定のカルマの状況を解明し、苦しみは自分の意志によるものだったという自覚――この自覚は治療のプロセスに不可欠なものである――をもたらしうるのである。カルマが果たされていなければ、常に問題が生じてくる。憂うべき事態が生じたとしても、それは単に自分自身で招いたせいでしかないのである。スチュワート・C・イーストンは『人智学からみた人間と世界』にこう書いている。

 「……この世の運命をなげき不運をかこつたびごとに、我々が非難することになるのは自分自身の選択であって、ひどい仕打ちをする気まぐれな神または神々の選択ではない。ゆえにカルマを知る者の犯してはならない悪徳は、嫉妬ということになるlそれが他人の境遇に対してであろうと、他人の持つ才能や富や友人などに対してであろうとlなぜなら我々が手にしているのは、みずからが選びとったものであるからだ……。」

 もし私たちがつらい人生を堪え忍ばなければならないとしても、かならずしも前世で悪いことをしたためとはかぎらない。一定の試練をうけて、将来の仕事やりっぱな業績にそなえているのかもしれないのだ。カルマのせいで、しなければならないことやかかわらねばならないことが生じはするが、カルマとは本質的には動機の存在を意味するものであり、ひいては自由意志を行使せざるを得なくするものなのだ。
 人格を高めることのほか、技能や才能を向上させることも、カルマ的な成長のうちに含まれる。被験者が幾多の生涯をたどるうちに、どのようにして幼稚で自己中心的な人格から青年期の人格へ、ときには円熟した人格へとつづく長い道程を歩んでいくかをホイットン博士は知った。進歩はかならず意志の強さで決まる。また、いかにして才能が人生から人生へとひきつがれていくのかもわかった。今生での非凡な才能は、もとをたどればこれまでの転生で努力と専念をつみかされてきた結果なのである。こうしてみると、偉大な政治家、音楽家、哲学者など世界の著名な人たちは、過去世で徐々にその能力を身につけ、つちかってきており、ついに実力者としての生涯においてその能力が実を結んだ、と推測するのは理にかなうことである。逆に、リーダーシップに欠けていたり組織力のない人は、前世でも歴史上有名な指導者ではなかったらしい、ということになる。
 カルマは、人間の努力のどの領域にもあまねく働いている。ジョセフ・J・ウィードは、『神秘学の大師の知恵』で、カルマの法則の働きにおいて、原因と結果がつぎのようにあらわれてくると述べている。

☆ 志を抱いたり望んだりすることは才能となる。
☆ くりかえし考えることは性癖になる。
☆ なしとげようとする意志は行動となる。
☆ 苦しい体験からは道義心が生まれる。
☆ 体験をくりかえせば知恵となる。

 問題になるのは、カルマの曲がりくねって険しい道程が目的達成のための手段を提供してくれるとはいっても、魂の高次の目的を不明確にしてしまうおそれがあることだ。すべての個人の努力と人間相互の行動にはカルマがつきまとうが、カルマから生じる不協和音は、私たちの人生のバックグラウンド・ミュージックの主旋律――自分自身をもっとはっきりと知ろうとする魂の内なるあがき――を消してしまうことがよくある。べつのたとえ方をすれば、私たちはみな「進化」という広いハイウェイをドライブしているのだが、たえずカルマの交通渋滞がじゃまになって目的地がはっきり見えなくなってしまうようなものだ。中間世にいるときには、高次の目的はすぐにわかる。ところがこの世において定められた目的を全うしようと探求していく場合、そのあらわれ方は、幾多の生涯にわたっての「魂の探求」という形で、つぎのように五つの段階を経て徐々に進んでいくように思われる。

1 唯物論の段階

 物質的な幸福を追い求め、肉体的快楽の熱望に支配された状態。他人の感情にはほとんど関心がなく哲学的目標は皆無にひとしい。死後のことや、いかなる種類の究極の力も認めない。

2 迷信の段階

 自分自身より偉大な力や実在があることにはじめて気づく。この全能の力について実質的には何も知らない。どうやらお守りや儀式などでしか制御できないものがあるらしい、と認めている。相変わらず唯物論的な生き方が支配的である。

3 根本主義の段階

 神とか全能なるものについて、単純で迷信的で型にはまった考え方をし、それが生活の基盤となっている。儀式につきもののお祈りや、ある態度や行動を実践すれば、究極の報い――天国とか死後の地位――が保証されると信じている。ふつう、全能の神の怒りをなだめるべく、神にとりなしを願うことが指導者に要求される。指導者がターバンを巻いたヒンドゥー教の導師だろうとイエス・キリストと呼ばれようと問題ではない。この段階では基本となる信念を活用しこれを伝え、解釈する人物が必要とされる。

4 哲学の段階
 自己の責任にめざめたばかりの段階。宗教的信念を持ちつづけてはいるが、教義に依存するだけでは不十分だという認識がある。この段階の特徴は、生命を尊重し他人の信念に対して寛容であり、既成宗教の教義を深く理解していることである。

5 「迫害」の段階

 人生の隠された意味とは何かを理解したいという強い願いから生じる、内なる緊張と怒りが頭をもたげる。存在の深い意味と目的に気づくが、どうすればそのような知識を得られるのか、はっきり確信がもてない。答えを探求するために広く本を読み、研鑚を深め、各種の神秘学や形而上学研究のグループに加わったりすることが多い。「迫害」の名称はキリストの山上の垂訓、「義のために迫害される人は幸せである」「マタイの福音書」五章十節)からとった。

 これらの初心者の段階を無事に卒業すると、もうその人はしっかりと進歩の道を歩みだしている。進歩とは何本もの細い道が縦横に走っている高い山のようなもので、道の中には人通りの多いものもある。さまざまな道は、東側からは瞑想や超越瞑想を通じて上へと続き、西側からは神秘主義や形而上学を通じて上へと続く。
 こうありたい、何がしたい、何かほしいといった執着が残るかぎり、カルマの因果関係は消えない。契機の法則がよくわかってくるにつれ、自分の動機や態度や行動がどのようにカルマの条件を作り上げていくかを次第にはっきりと予見できるようになる。釈迦の哲学はヒンドゥー教の賢人たちの著作から多くを受け継いでいるが、おどろくべきことには、その釈迦でさえ、いまだに及ぶカルマの影響力に悩まされていた。ある日釈迦は、足にサボテンの刺がささったおり、通りがかりの人々からは冷たい言葉をなげかけられ、近くの村に托鉢に行っても何の施しももらえなかったことがあった。前世から持ち越した自分自身のカルマを説明するよう求められて、釈迦はこう答えた。

 「……カルマの束縛は忠実な召使のようなもので、すべての者につねにつきまとっている……カルマは時のながれのようなものだ。たえず人間を追いかけてくるその流れを止めることはできない。カルマの蔓は長い。新しいけれどもいまだに古い果実でおおわれている。すべての者のすばらしい道連れだが、引っ張っても、つかんでも、引き裂いても、引き抜いても、ねじっても、こすっても、砕いても、決して取り去ることができない。」

 釈迦は、たとえ高いところまで到達しても、前世の過ちをのがれることも破棄することもできないことをあきらかにした。法は法であり、カルマの状況の目標である叡知に到達する近道はない。アラン・ワッツは『禅の精神』で、「……人間のカルマは影のように人についてまわる。『自分の影のなかに立ちながら、暗いのはなぜなのだろうと人間は不思議がる』といわれてきたように、たしかにカルマとはみずからの影なのだ」と書いている。カルマに終止符をうつには、昔の負債を完済しなければならず、新しく借りをつくってはならない。多くの生涯にわたる帳簿上の収支を清算しうる方法はただひとつ、愛と無我の戒めを全身全霊で受け入れることだ。もうひとつ、ジョセフ・ウィードのことばを引用してみょう。

 「ほんの少しでも利己心をもって行動したり、見返りをもとめて善行を行なうかぎり、その報いを受けるためにこの世へと戻らなくてはならない。原因には結果があり、活動には成果がある。欲望はこれらをつなぐ紐である。紐の一本一本の糸が燃えつきて切れるとき、その関係も終わり、魂は自由になるであろう。」

 カルマの概念のもたらす結論としていちばん重要なのは、私たちのおかれた境遇は決して偶然のなせるわざによって決められたのではない、ということだ。この世で私たちはバルドで選んだことを体現している。私たちが、バルドの肉体をもたない状態にあって決定したことによって今生の境遇が決まり、潜在意識のありかたによって、良運や悪運がめぐってくる。カルマの法則が真実だと確信することはすなわち、たとえ現状がいかに困難でも、この現状にわが身をおいたのは自分自身なのだ、と認めることなのだ。人はそれぞれ、試練や苦難の中にこそ学び成長するための最大の機会がある、と理解したうえでその試練や苦難を探しだしていくのである。
 
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