輪廻転生 
驚くべき現代の神話
J・L・ホイットン/J・フィッシャー著
片桐すみ子訳 人文書院
 
 

 ● この世への帰還

 最終決定をしてしまえば、あとはもう一度肉体へと下降するだけである。死とはまさに帰郷、すなわち闘いと苦しみから戻って憩う休息期間であり、誕生は熾烈な新しい仕事の第一日目だ、ということが超意識から明らかになっている。この世の試練を熱心に待ちのぞむ者もあるが、時間と空間のないバルドを捨てて物質界の拘束をうけるのに気が進まない者がほとんどである。
 当然、この世への帰還を人一倍いやがる者もでてくる。ある男は、古代ギリシアで年端もいかない少年たちを働かせて虐待したことがあった。その彼は、こんどは自分が同性愛者としてこの世に戻って虐待を受けるのに怖れをなし、「男の慰み者になるだって! それだけはかんべんしてくれ……」とトランス状態で悲鳴をあげた。
 のちに彼はこう語っている。
 「あの身体に入っていくしかありませんでした。裁判官たちの助言でいやいやながら選んだのであって、選んだからには最後までやりとげなければならなかった。せきたてられたような気がします。」
 そう長く転生をこばみつづけることはできないようだ。この被験者が証言したように、ゆくゆくは宇宙的な圧力が蓄積し、魂を物理的肉体におしこんでその歩みを再開するよう強要するのだ。
 肉体に宿らないでいる期間がどの程度の長さになるかは、人により、また生涯によりかなり開きがある。ホイットン博士の被験者たちの場合、死んでからつぎの転生まで最短十カ月、もっとも長いもので八百年以上におよぶ。中間世の平均滞在期間――40年ほど――は過去数百年のあいだに確実に縮まってきている。昔の世界では世紀から世紀への地球の変化はほとんどなく、今日ほど転生の誘因も多くはなかった。あたかも変革があいつぐ現代の世界が、この世の新しい体験をずっと待ちのぞんできた者たちを誘い込むため、肉体を脱している期間が短くなってきているように思われる。このことから世界的な人口増加もうまく説明できるのではなかろうか。ホイットン博士の被験者のうち何人かは、第二次世界大戦中に死んで、まもなく転生してベビーブーム世代に加わったという。
 新しい身体なら何であろうと欲しくてたまらない未発達の魂は、中間世に長くはとどまらない。以前の人生での所業のせいで生じたカルマの償いを早くすませようと、地上に生まれるチャンスをうかがっている者も同じだ。滞在が長びくのは、つぎにこの世に生まれるための準備に大いに努力したいと願うせいかも知れないし、進歩発展に関し無気力な態度をとるのが原因かも知れない。後者の場合だと、つぎの転生の「起きよ」というよびかけがあるまで肉体をはなれて眠ってしまうことになる。紀元前五世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、古代エジプト人はひとつの転生とつぎの転生までのあいだに三千年間かかると教えていたという。ところが現代の催眠療法家たちの手でこの数字はすっかり書き替えられた。被験者の多くは二十世紀という期間内だけでも数回生まれ変わってきているのである。ジェーン・ロバーツを霊媒として通信してきたセスという有名な精霊の案内人がいる。セスは、バルドの長さは個人の選択によって決定されるということは確実だ、といっている。「それは常にその人次第である。あなたの心の中にいま答があるように、その場合も答はあなたの内にあるのだ」と彼はいう。
 この世に入る前に魂は意識のバイブレーションを低める働きをする、形のない障壁を通りすぎる。この障壁――古くから言われてきた「忘却の河」で象徴されるもの――を越えるとバルドのすばらしい記憶は消え去ってしまう。こうしてすっかりバルドの記憶が消え去ってしまうせいで、あとにしてきたすばらしい世界にいつまでも思いこがれたり郷愁を感じたりすることなく、過去の所業や過ちの影響で心を乱さずに新しい人生に乗り出せるのは、実にありがたいことといえよう。同じく重要なのは、来るべき人生にそなえて魂が立てた計画がどんなものかも、必ず忘れてしまう点だ。学生にとってテストの前に答がわかってしまっては意味がないように、人生のテストでも、ある種の情報は意識の心には一時的に知らせないでおく必要があるのだ。
 実際に体内にいる最初の記憶は、誕生の数力月前から、子宮からでてきた直後までの時点にわたって報告されている。ホイットン博士の被験者の多くは、母親のうえに「浮いて」いたといっており、母親に食物や音楽を選ぶようにすすめ、煙草やアルコールをやめさせ、一般的に母子がたがいに健康で幸せになるようにみちびいていた。胎児の名前を伝えてきたケースもいくつかあった。
 魂が肉体に入るのは徐々にだろうか、瞬時にだろうか。誕生のずっと前か、誕生時か、生まれ落ちてからだろうか。それとも人によって大幅にちがうのだろうか。これらは重要な問題だが、大量の証拠はあってもみなまちまちで、そこからはっきりした答はでていない。ふたつのタイプの記憶、すなわち脳の記憶と魂の記憶とが併存しているため、この問題はややこしくなっている。脳の記憶は妊娠3カ月以内に機能しはじめるために、催眠下の被験者が伝えてくるメッセージが中枢神経からくるのか、永遠の「自己」の存在からくるものなのか判断するのはむずかしい。これがはっきりしないため、目下沸騰している堕胎論議にしろ決定的な見方は出てこないのである。ただ言えるのは、堕胎が行なわれたときにもし魂が肉体に存在していれば、胎児を堕ろすのは殺人行為と同等であるし、肉体に宿っていなければ中絶医のすることは一片の組織細胞の除去にすぎない、ということだけである。

 (中略)

 エドガー・ケイシーのデータが示すところでは、分娩前後のわずかな期間もしくは誕生の瞬間に、魂は肉体に宿ることができる、という。概して、ホイットン博士の被験者はケイシーの透視による説を支持しており、つぎのような誕生の体験も報告されている。

 「私は分娩室にいて、母とそのまわりにいる医者たちを見守っていました。進行中のすべてのもののまわりを白い光がとりかこんでおり、私はこの光と一体でした。それから『生まれてきますよ』という医者の声が聞こえました。自分はあたらしい身体と合体しなければならないということがわかりました。今生で生まれてくることにはまったく気がすすみませんでした。光の一部でいるのがとてもすてきだったからです。」

 あたらしい人生が展開していくにつれ、中間世が存在しなかったかのような気がしてくるのも無理からぬことである。子供には中枢神経系から生じたアイデンティティーが発達するため、この中枢神経そのものと、一時的に宿っている肉体という環境とが、唯一のリアリティーを形成すると思いこんでしまうのだ。言語が発達するにつれ、本来のより純粋な存在形態に漠然と感づきはしても、それは「実在しないもの」として忘却のなかに葬りさられ、あいまいかつ抽象的で非常に不確かなものとしてかたづけられてしまう。
 深いトランス下での中間世の旅を終えた人が平常の意識をとりもどしたとき、ショックをうけたり肝をつぶしたりすることがよくある。お菓子屋の店先で夢中になっているところを不意に外につまみ出されてしまった子供のように、ホイットン博士の被験者たちも、あの何もかもすべてを知ることのできる国へと戻りたくてたまらなく思うのである――人生の意味がおのずとわかり、魂とその永遠の目的とをガラスを通したように透かし見ることのできる、あの国へと――。

 「信じられないほどすばらしい世界にいたところを起こされてしまうなんて……やっと本ものの世界がわかったというのに」と、ある被験者は不満の声をもらした。人間は滅びねばならぬ肉のからだに閉じこめられているにすぎないとしたら、「真のリアリティー」を一瞥しさえすれば、バルドの体験をきっとまた繰り返すことができるにちがいないということがわかるだろう。それを知ったあとには死の恐怖はなくなる。ある被験者は、
 「死ぬことが、とてもすばらしいことだとわかりましたから、これで私は死を楽しみに待つことができます」
と語っている。
 生と生のはざまを旅した人々は、ほとんどだれもがこのすばらしい別世界の感覚を目覚めたときにおぼえているが、トランス状態では比較的納得のいく説明をしたにもかかわらず、その記憶をみずから満足がいくまで説明することができる人はほとんどいない。
 「あまりにもかけはなれているんです」と、彼らは言葉を手探りしながら言うことがよくある。
 「はっきりとは説明できないんですが……。でもやっとこれで私の人生がなぜ、どうしてこうなったのかがよくわかりました」とある女性は語っている。超意識がどんなものか説明するのがむずかしい理由のひとつは、それが他にたとえようのないものだという点にある。人間は不思議なできごとを言いあらわすとき、すでに自分が知っていることばで表現するものだが、この世には中間世にたとえるものが何もない。シンボルでさえもその体験の内容や意味をとらえることができないようだ。
 また再度、自分の思い出したことを検閲することがあるかも知れない。ある被験者は、「話をしないでおくことはできても、うそはつけません」と書きとめている。否定的な感情を表にあらわすまいと抑圧してかかる傾向はつよい。近づいているできごとを意識の心が知るとカルマの進展のさまたげとなると決断すれば、必ず魂はみずからの記憶を消し去ってしまう。催眠下で自分が将来出会うはずの事件をかいまみてしまった被験者たちが、ホイットン博士にその記憶を意識から消してくれるように頼むのは再三のことだった。
 「どうか目がさめたら、このことを思い出させないでください。自分でカルマを書きなおしたくなってしまうかもしれないですから」と被験者たちは頼んできた。自分の未来の境遇を物語っている最中にトランス状態からはね起きてしまい、これまで明らかになってきたことを何も思い出せなくなってしまった者もある。
 それにもかかわらず自由にカルマの台本に眼を通し、そこで知ったことを意識にのぼらせ、自分の将来の人生におこる出来事を予言しようという気持ちになった被験者もいる。そういった予言がごく近い時期のもので、確認することができた場合には、常に予言が正しいことが証明された。これからさき何が起きるのかをそれとなくにおわせる――あくまでもにおわせるだけだが――ケースはさらに多い。1984年8月、ある機関車の運転手は1985年秋に「何かとても悪いこと」が待ち受けていることを超意識から知った。彼にはこの不吉なできごとがなんだか見当もつかなかったが、たとえそれを避けようと思ったとしても、それがはっきりとどんなものかを知ろうとしてはならないのはわかっていた。「それが何であろうと、魂の成長のために経験しなければならないということは知っていました」と彼は語っていたが、1985年9月15日に彼は突然ひどいぜんそく発作におそわれて2週間入院し、最初の4日間は集中治療室ですごすほどだった。
 バルドから戻った人たちの話はみなまちまちである。テーマは似ていても、境界での光や明るさの程度、裁判官たちのようす(3人の姿は目にしなかったが、何となく高みから聞こえてくる助言を感じただけの者もいる)、カルマの台本が検討される度合いなど、ほかにも多くの点が異なっている。中間世を訪れる特権を得たほんのひとにぎりの人々の受けたメッセージは、根本的な一点についてはみな同じく手厳しいものだった。すなわち、
 「自分がどのような人間でどのような環境にいるかは、すべて自分の責任である。自分自身がそれを選んだ張本人なのだ」と。
 すべてが自分の責任である、と聞くと、刀の切っ先を突き付けられたときのような、危機に瀕しだ自由と受け取られるかもしれないが、私たちはみな、各自の考えや言葉や行いに目的と意義が与えられる、畏敬すべき進歩の過程にみずからあずかっていると知ったとき、その恐怖はやわらぐのである。自分の過去に基づいて次の転生がどのように選ばれるのかをかいまみてしまうと、中間世を旅した者はその旅から戻ったあとで、あらためて自分たちに重い責任があることを深く考えざるをえない。しかし彼らは戻ってからも同様に大宇宙に作用する人間精神に呼応するもの、すなわちとてつもなく入り組んだ転生の旅に充満しているものがあることを、いたく感じつづけている。深遠なリアリティーである完全な調和をまのあたりにした者は、必ず囚われの身から解放されるのである。キケロが『法律について』で述べているように、かなたの世界をのぞき見たあとで、「我々はやっと、なぜ自分たちが生きねばならないかという理由を知る。そして我々は生きることに一生懸命になるばかりでなく、死にもっと期待を抱くようになる」のである。
 
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