輪廻転生 
驚くべき現代の神話
J・L・ホイットン/J・フィッシャー著
片桐すみ子訳 人文書院
 
 

 ● つぎの人生を計画する

 ホイットン博士の研究でもっとも注目すべき点は、肉体に宿っていない状態のあいだに、多くの人々がつぎの人生を計画する事実がわかったことである。回顧の過程で探り出した自己に対する認識をもとに、魂はつぎの転生をどのようにするかを決める、きわめて重要な決断を下す。しかし魂はひとりで意志決定をするわけではない。決断するときには、裁判官たちの存在が大いにものをいう。裁判官たちは、魂にはどのようなカルマの負債があるのか、またどんな点を学ぶ必要があるのかをふまえて幅広い助言を与える。キリスト教の伝承によればイエス・キリストは、肉体をそなえた存在としては唯一の、両親を選択する特権を持つ者とされている。ところが、選択の道は万人に開かれており、来るべき人生を設定したり方向を定めたりするうえで、両親の選択が非常に重要だということがわかったのである。古代チベット人はこの来世を選ぶ手続きをちゃんと知っていた。『バルド・ソドル』は肉体を去った魂に、「……汝の生まれんとする場所を調べよ、肉体を選択せよ」と助言している。
 魂の望むものではなく、魂が必要とするものに応じて、裁判官たちは魂に忠告を行なう。だから、たとえ魂がいかなる代償を払ってでも一心に成長を追い求めるつもりがなければ、その忠告は複雑な感情とともに受け取られる傾向がある。ある女性はこう語る。

 「私はどんな困難が人生の途上に生じてもそれに直面できるよう、つぎの人生を計画するのを助けてもらっています。弱い人間なので責任を回避することばかり考えていますが、障害をのりこえるための障害を与えられるべきだとわかっています――もっと強く、もっと意識を高め、より進歩してさらに責任を果たせるように。」

 進歩の代償はつねに試練と困難である。魂が成長するにつれ、人生が次第につらいものになっていくのは、まさにこのためなのである。幾多の生涯を通じてきずなを作り上げてきた他の魂と相談して、つぎの人生の計画を決定することがよくある。つまり誕生の時と場所の選択が非常な重要性を帯びるわけだ。選択をあやまれば、みのりある再会のチャンスを逸してしまうことになる。

 グループ転生とは同じ魂たちが組になって、さまざまな人生においてたえず変化する関係を通じて発展していくことだが、ホイットン博士の被験者によれば、このグループ転生はひんぱんにくり返されているという。「カルマの台本」では、関係のよしあしにかかわらず、前世に登場した人とふたたび新しくかかおることが要求される。自分が人に対して償いをせずにはいられないと思ったある人物は。

 「前世で十分な扱いをしてやらなかった人がいるので、またこの世に戻って借りを返さなくてはなりません。こんど彼らが私を傷つける番になっても、許してやるつもりです。また故郷へ戻りたい一心だからなのです。ここが故郷なんですから。」

と語っている。
 「魂の友(ソウル・メイト)」ときくと、互いの成長のため何度も目的をもって転生をともにしてきた魂を連想するかもしれない。ところが、一紲にいてけっして楽しくはない相手と再会することによって成長する場合のほうが多いのである。
 「いやだ……あの女なんかもう二度とごめんだ!」ある被験者はうめいた。彼は前世で自分が殺した女性のもとに生まれ変わるのがいちばん成長に役立つ、と言われたのだった。
 自分のカルマにふさわしい状況に身を置くため、欠陥のある身体を選択するよう助言された被験者も何人かいる。大きく進歩するためには逆境を受け入れなくてはならないこともあるのだ。ある女性はこう報告している。

 「私はその人がアルツハイマー型老人痴呆症の発病率が高い家系の出で、自分も同じ病にかかる可能性が高くなると知りながら、母親として選びました。母とのカルマのつながりはどんな遺伝学上の欠陥よりも重要だったからです。母を選んだのにはもうひとつわけがあります。裁判官たちが私に、今生では父親なしで育てられる体験を味わうべきだと言ったのです。両親がそのうち離婚するだろうということは感づいていました。この両親を選んだことで、結婚相手となるべき男性と会うのに理想的な立地条件におかれることも知っていたのです。」

 計画はかならずしもこのように決まった条件のもとに遂行されるとは限らない。未発達の人格ほどくわしい設計図を必要とするようだが、発達した魂になると大体のアウトラインだけをつくり、むずかしい状況に身を置いて、より創造的な活動をしていくようにみえる。何回かの人生で鬱々と暗い生活をおくったある男性は、自分の発達のためにつぎの転生では、華やかなラブロマンスに身を投ずるのがいいと考えた。彼が計画したのは多情な女になるという大筋だけで、基本となる性別と態度だけを決めておき、あとの未来のできごとはくわしく決めなかった。つぎの人生の計画をたてながら、彼はこんなイメージを描いた。

 「……時計仕掛けの機械のようなものがありますね、一定時間がたつと作動を開始する部品をとりつけられるようになった……。思うに私は自分の変えたいところを調整していたんではないでしょうか。機械に細工して、中間世での計画にあわせて将来私の人生に変化がおきるよう、しかるべく調整して変換スイッチをセットしたわけです。」

 この被験者は前世から知りあっていた、「はっきりと人間の形をしていない」存在に気づいていた。彼のつぎの人生に登場して大きな役割を果たすことになっているひとりの人物が、半身バラの花で半身はコブラという象徴的な姿をしてあらわれたのである。このシンボルの意味を問われて被験者が答えるには、その人のコブラの側面とは、その人物が過去に二度までも彼を殺してきた張本人であったことをあらわし、バラは数回の人生にわたってこの二人を結びつけてきた愛の本質をあらわすものだという。
 自分の計画を知ってがっかりする場合もある。タクシー会社の配車係をしているある女性は感情的な問題と劣等感にひどく苦しんでいたが、自分の中間世での計画を思い出せば、今生で自分は何か偉業をなしとげる運命にあることがわかる、と考えた。ところが超意識からわかったのは、彼女の今生の目的は他の人々とのあいだの感情的な問題を克服するのを学ぶことにすぎない、ということだった。現在の劣等感は彼女が前世でとった偉そうな態度の代償なのだった。自分のカルマの台本の進行状態があまりにも遅々としたものなのを知って驚いた彼女は、落胆のあまり抗うつ剤を処方してもらわねばならない始末だった。苦しくはあったが、この個人的な計画を知ったことで、彼女は結局自分の設定した任務を遂行することができたのである。
 大きな困難を克服するのに何回も失敗した人々は、その難題をきちんと果たすまで、おなじ状況に身を置くよう裁判官たちに促されたという。自殺した人は、中間世で不安感にとらわれることがよくある。彼らは自分たちが未熟のままこの世に別れをつげる原因となった苦しみの段階に、また戻らなければならないと知っているのだ。ある被験者は栄養学の博士号をとるため勉強中だったが、その前世を調べたところ、過去二千年ものあいだずっと孤独に耐えることができないでいた。今生でもこの女性は自分の息子に過度に頼るようになり、息子が大学に入るので家を出たときには神経衰弱の一歩手前までいった。超意識からわかったことは、またもや彼女は自分の課したテストに失敗したので、この弱さを征服することを学ぶまで同じような状況をつくりだしつづけねばならない、ということだった。
 この世での人生が進行中であっても、計画をすっかり変更することができる。スティーヴ・ローガンという被験者がその一例である。彼は若いころ父を極端に毛嫌いしており、父の病が重いというのにめったにマイアミの老人ホームを訪問してやらなかった。だがあるとき、何となく父のことが気になって父を訪ねていった。老人ホームに着くと、父は重体で各種の生命維持装置につながれていた。まくらもとに立ったスティーヴがみたのは、人工呼吸装置のチューブが外れて息ができず苦しんでいる父の姿だった。この状況に置かれて、スティーヴはジレンマにおちいった。命を助けるために看護婦を呼ぶこともできるが、見てみぬふりをして父を死なせることもできる。一瞬思案したが、彼は大声で看護婦を呼びながら部屋をとびだし、看護婦は無事チューブをもとの位置にもどしたのだった。
 何年かのち29歳になったスティーヴは、オレゴン州のちいさな町で自転車に乗っていて、ひどい事故にあった。横からトラックにはねられたのだが、好運にも大腿骨骨折はまぬがれた。彼は40歳のはじめに超意識につれられていってはじめて、これらの二つのできごとが自分の中間世で計画されたものだと知った。彼はこう報告している。

 「父の生死を決めたあの事件は、あきらかに私が自分で計画した重要な試練で、そのことは私のカルマの台本にはっきりと書かれていました。もし私に対して父が犯した罪――何回もの人生にわたるものらしい――を許してやれたら、私は自転車事故で死なずにすむことになっていたのです。計画では、私の過去の行為のために、父を死なせようとすることになっていました。でも私はテストにパスし、事故ののち、その計画は終了したのです。来世にわたる未完成の計画が繰り上げられて今生で起こったことがわかりました。」

 何回か先の人生まで計画してきた人たちは、自分たちの成長に深くかかわりあっていると考えられる。このように堅い決意を持つ魂は、バルドの期間のほとんどをある種の勉強に費やしたと語っている。一方、物質界にとらわれている魂は、中間世に入った最初のしるしが見えたところで急いで肉体へと戻っていったと話している。また、向上心のない人々は、裁判官のまえにでると、往往にして眠りに落ちてしまい、この世にまた生まれていくために目を覚ましなさい、とせかされるまでずっと気づかないという。
 中間世で知識を得て、魂はつぎの転生や学んだことを実行にうつすチャンスにそなえる。実際に応用してみなければ熟達できないからだ。ホイットン博士の被験者のほとんどは、自分たちが図書館や研究室のある広い学舎で一心に学んでいるのを見たという。たとえば医者や弁護士などは、中間世にいるあいだに各々の教科を勉強したと語っており、「宇宙の法則」や他の形而上学に似た課目をとったことを記憶している人たちもいる。この世にはそれに相当するものがないために、どう表現していいかわからないような課目を学んだと語る人すらある。ある女性は神の道を発見するための自分の探求について遠回しにこう報告している。

 「私たちは神の像に似せて創造されています。つまり、私たちは神のようになって神のもとに戻らねばならないということです。もっと高い次元の世界がたくさんあり、神のところへ帰るため、神の霊が住まう世界に達するためには、霊が真に自由になるまで衣服をぬぎすてていかなければならないのです。学ぶことには終りがありません。ときには私たちは高次元の世界をかいまみることを許されますが、高い次元にいくにしたがってどの世界も、より明るく、輝きを増していきます。」

 計画をたてる過程をみればわかるように、この世で起きることの多くはすでに大なり小なり中間世において下稽古がすんでいる。ラルフ・ウォルド・トラインは、その著作『無限なる者の声をきく』で1897年の昔にこう書いている。

 「すべてのものは、眼に見える世界に出現するまえに、まず見えざる世界のなかで作り上げられている。現実の世界にあらわれるまえにイデア界のうちに作られ、物質のうちにあらわれるまえに精神のうちに作られる。見えざる領域とは原因界であり、見えるものの領域とは結果の領域だ。結果がどんなものになるかは、つねにその原因がどのようなものかによって決定され支配されている。」

 中間世の状態にあるとき、私たちはいわば壁画の下絵をかく画家のようなものだ。いったん肉体に宿ると、私たちは描こうとした傑作にとりかかる。くる日もくる日も全体の構想を細部まで仕上げようと、壁にへばりついて仕事をつづける。そしてついには――死に際して、もしくは超意識を通じて――壁からしりぞき、芸術作品をながめることができる。生と生のはざまに戻ったときにだけ、自分の立てた目標に対してどれだけ忠実だったか知ることが可能となる。
 もちろん下絵をつくっても、実際にその通りのものができあがると決まったわけではない。計画は作成ずみかもしれないが、それを遂行せねばならないわけではないのだ。それでは、私たちが中間世で決めたことに対して忠実であるかどうか、人生の途中でわかるだろうか。答えは心の内から出てくるはずだ。カルマの台本どおり生きぬいている人とか、台本以上のことまでもしてきた人々は、人生はしかるべく展開しているのだ、と心に感じる。計画を逸脱してしまった人々にしてみれば、何事も意のままにならないように感じられる。混沌が支配するのだ。スポットライトの下へと足を踏みだしはしたが、おろかにも自分のせりふを思い出せなくなってしまった役者のように、彼らは人生というドラマが展開してもその場しのぎの芝居をやるしかない。ところが、良運と悪運とのあいだ、人生の台本づくりの立場と即興芝居をする役者として舞台をつとめる立場のあいだに、成り行きまかせの状態に置かれたように見える人々もいる。この人たちには計画はあっても、いくらでも即興を演じてもいいことになっている。
 何年かまえ、イリノイ州にあるインディアンの墓地のちかくの藪に誘い込まれてレイプされた三17歳の女性の場合がそうだった。ホイットン博士に相談にくる前、この女性はなぜ自分が犠牲者になってしまったのかとかなりの時間とエネルギーを費やして考えてみたが結局は無駄に終わった。その後、生と生のはざまを旅してみると、このレイプは計画されていたものではないことがわかった。ところがそれと同時に彼女のカルマの台本の筋書には、人生の一大転機をもたらす偶発的な悲劇のため傷つくことになっている、と書かれていたのである。彼女はこう語る。

 「私の計画では、三十代で自分の魂が完全に変貌をとげるような悲劇的なできごとに出会うことになっていました。この事件に焦点をあわせ、適当な手段でもって、自分の人生とはなにかを深く考えようというわけです。そして、その通りのことが起こったのです。」

 裁判官だもの助言を拒むのも自由であり、魂は自分に都合の悪い勧告を受けても無視することがある。勧めを拒否することは、転生が無計画に行なわれることを意味するため、実りのない無用の艱難辛苦がいつ襲ってくるかも知れない。無計画に生まれ変わるのもまたひとつの選択である。そうなった場合困るのは、台本がないため、魂は風にそよぐ葦となりかねないことだ。運命に関与する者というより、宿命にもてあそばれる者になりかねない。「三人」を無視しても罰は受けないが、そうした場合にはまず、人生の終りになって自分の人生は無駄だった、と悔やむ結果になるだけだろう。
 時としてトランス下の被験者が、自分は中間世の状態で計画をたてていなかったことを知ることがある。それを博士に告げるときの被験者は、かならず不安そうな表情をする。一方、カルマの台本に頼るひとびとは、催眠下でその困難にみちた人生計画を語るときでさえ淡々としている。予定の立っていない未来ほど悪いものはないらしい。
 
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