第一章 霊界への移行

 人生で、避けては通れないもののひとつに、死がある――私はむしろ、物質界から霊界、つまりアストラル界へ移行するという意味で、「他界する」と表現したい。物質界から霊界へ移行は、終焉ではなく、意識が別の状態へと変化することだ。物質的なレベルに制限されず、感情的、精神的な領域へと限りなく広がって考えることができるのだ。いったん肉体から解き放たれ、物質界の欲求に身をやつすこともなくなれば、私たちは新たな習得段階へと高まることができる。
 考えてもみてほしい。肉体の管理のために、私たちがいったいどれほどの時間を一日に費やしているかということを。食料を与え、清潔にし、住みかを与えるために稼いでやり、衣服を身につけさせ……などきりがない。睡眠ひとつをとっても、この世で過ごす時間の四分の一が奪われているのだ。かと言って、きちんとした管理を怠ろうものなら、すぐさま故障が出始める。やがては病魔が肉体を蝕み、その損傷を修理するためには。またしても莫大な条時間とエネルギーが費やされかねない。肉体というのは神聖なる機械だ。そのあまりにも複雑な構造のために、どうすればきちんと機能させておけるのかという点について、人類はいまだに模索状態にある。
 物質界の人生は、サンスクリット語の「マーヤ」という言葉で表すことができる。「マーヤ」とは、幻覚という意味だ。ヒンドゥーの教えでは、真実とは不滅であり永久のものであるとされている。変化するもの、朽ちやすいもの、始まりと終わりがあるものはすべて、「マーヤ」であると考えられているのだ。この考えにしたがえば、この世の生命はどれも一時的なものなので、それは真実ではないということになる。それは「マーヤ」なのだ。つまりものごとは、すべてが目に映ったとおりであるとは限らないということだ。中国には、美しく彩られた外見だけで家の価値を判断してはならないと警告することわざがある。表面的な幻覚に惑わされると、いつまでもぐらつくことのない建物の土台というものがいまに出てくるのではないか、とつい信じてしまうことになる。それが真実でないことは、経験から明らかだ。私たちは、見せかけを真実だと誤り、「マーヤ」の状態にいる。物質界の人生こそが存在の唯一のかたちだという考えは、幻覚だ。そして、物質界の人生が終わりを迎えるとともに私たちは死ぬ、という考えこそは、まさに極めつけの幻覚なのだ。

 死の瞬間に起こること

 世の中には、臨死体験を語る数多くの本が出回っている。それぞれに共通しているのは、その希有な体験を私たち人間に語らせるべく、彼らを送り返してきた人々の話だ。臨死体験者はパスポートを持たずに国境線にたどりついてしまったようなもの。だから入国審査局が、きちんとした書類を用意させるために彼らを送り返してくるのだ。
 彼らは、短い滞在期間とはいえ、その新しい世界の空気を感じ取ることができる。多くの住民に会い、新しいにおいをかぎ、見たこともないような風景を目にしているのだ。彼らはすっかり魅了され、いまはまだその地にとどまれないと知ると、がっかりする。
 肉体的な死(他界)は、私たちにとって、新しい世界に旅立つ際のパスポートなのだ。霊界の生活は、真の民主主義によって統治されている。あなたは、自身の行動によって勝ち得た界層に到着することになる。物質界での富やコネは、この地ではいっさい通用しない。あなたの人間性そのものが、あなたの地位となる。この世で身につけた叡知が、至福へとつながる道を切り開くのだ。あなたが物質界で銀行の頭取であろうが出納係であろうが関係ない。問題は、この世におけるあなたの人生の質だ。だから、その旅立ちのときのためにも、私たちは、高潔、誠実、奉仕精神、愛情、ユーモアのセンスをもって、この世を生き抜かなければならない。
 できるだけ簡潔に説明してみよう。死の瞬間、霊魂が肉体という名のスーツケースから解き放たれる。肉体は、母親と赤ん坊をつなげるへその緒によく似た魂の緒(シルバー・コード)でアストラル体(感情体とも呼ばれるが、著者は霊体とほぼ同義で使っている)と結ばれている。他界する瞬間、この緒が切れるのだ。臨死体験では、この緒が切断されていない。つまり霊体は部分的に肉体から切り離されるだけで、まだつながりは残っている状態なのだ。そのままの状態で霊魂は肉体の上空をただよい、その周辺で起きていることを眺める。クライアントがこの体験を報告するのは、手術を受けたあととか、大事故を起こしたときが多い。いわゆる、生と死の瀬戸際、という状態でのことだ。たいていの場合彼らは、だれかが自分の死を宣言している場面を目にしている。それは緊急治療室の医者だったり、事故現場の警官だったりする。自分のからだが宙に浮かんでいると感じる一方で、彼らは手術台や担架の上に横たわっている自分自身の姿を見ることができ、そのまわりで起きている出来事を観察しているのだ。肉体から抜け出たとはいえ、彼らはまだ物質界にとどまっており、自分を救おうと必死になっている人々の声を聞くことができる。だがやがて、彼らはトンネルの中を抜けているような気分になる。トンネルの出口につくと、美しい光に包み込まれる。その神聖なるバイブレーション(霊気)に包まれた魂の感動は、言葉では語り尽くせないほどのものだ。霊魂となった親族や友人たちが境界線に立って、彼らに話しかけてくる。まだ他界するときではない、と告げられるのだ。この世の人生を完結させていない魂は、物質界に戻らなければならない。やるべき仕事がまだ残っているのだ。
 臨死体験者のほとんどが、すぐに肉体に戻ってきている。彼らには、霊界を訪れる時間はない。しかし中には、臨死体験中に霊界の一部を見せてもらえたという人々もいる。その人たちの体験についてはあとでお話することにしよう。彼らは一様に、この世には戻りたがらない。これは実に興味深いことではないだろうか。
 もし、死がつらく恐ろしいものであるなら、なぜあの世をかいま見た人々が口々に戻ってきたくなかったと語るのだろうか?「すばらしい体験でした」「あんな安心感とやすらぎを感じたことは、かつてありません」「死後の世界は、絶対に存在します」
 臨死体験をした人は、必ずと言っていいほどその人間性が変わる。死の恐怖が去ったことから、彼らは新たな自由意識を獲得したのだ。彼らは人生の尊さを理解し、人生にさらに深い意味を見いだすようになる。この世における人生の目的は、学び、成長し、進歩し、他人に尽くすことだと悟るのだ。
 そういった話を聞いたり読んだりするたびに、詩篇第二十三章のつぎの箇所が頭をよぎる。
「たとえ死の陰の谷を歩いていても、私は災いを恐れはしない」
 ここで出てくる「谷」とは、臨死体験者が通りすぎたというあのトンネルのことではないだろうか?

 ひとりではない

 喜びに満ちた死後の世界が約束されているとは言え、ほとんどの人間はこの世から霊界への旅路に恐怖感を抱いている。この世の友人や親族と別れるということ、あるいは人生の喜びを失うということを考えると、たまらなくなるものではある。でもどうか安心してほしい。この世から霊界へとひとりぽっちで移行する人間はいない。あなたの霊魂が肉体を離れ始める瞬間、境界線を越えるあなたを助けようと、陰から手を差し伸べているだれかの姿が目に入るはずだ。先にこの世を去った、あなたの愛する人の姿がはっきり見えるはずなのだ。ごくまれではあるが、親しい人がまだだれも他界していない場合は、移行の手伝いをするよう訓練された霊のヘルパーが、あなたのもとへきてくれることになるだろう。
 私は、他界を間近に控えた人々とともに過ごした経験を数多く持っている。彼らが、すでにこの世を去った人たちの姿が見えると話してくれたと。き、その人の他界が近いことを知る。ときとして彼らは、母親、祖母、そのほかの愛する人たちと、長いあいだ話し合うこともあるのだ。
 メタフィジカルな(形而上学的)世界にあまりなじみがない人は、それは病人の薬物反応あるいは幻覚だ、と片付けてしまいがちだ。だが私は、これがそういったたぐいのものではないと断言できる。霊体が、移行を始めたということなのだ。その患者が目にしているのは、その人を待ち受けている正真正銘の霊魂である。半分はこの世に、もう半分は霊界に入っているその人は、両方の世界に結びつけられた状態になるのだ。魂をひとつこの世に誕生させるときに時間がかかるのと同じように、この世を去るときにも時間がかかるものなのだ。死はすなわち、霊界への誕生なのだから。
 
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