古い魂と新しい魂

 魂が古ければそのぶん霊的に進歩しているという神話がある。
 確かに多くの魂は、転生の数に見合っただけの、ある程度の進歩が約束されている。だが、一度の人生でものが燃えるときには火が出るということを学ぶ人間もいる一方で、多くの人々は人生から人生へと、同じパターンをただ繰り返しているということも忘れてはならない。したがって、転生の数はさほど重要ではない。それをどう利用するかという点がポイントなのだ。 行動の動機こそが、魂の発展の鍵となる。中には、運よくほかの魂よりも早くこのことを学ぶことができる魂もあり、それゆえ自己を完成させるまでに費やす物質界での人生を少なくすませる場合もある。魂によって、その素質はさまざまだ。私たちはみな、それぞれ自分なりの時間で学んでいくことになる。

 ホワイト・フェザー

 霊的案内役は、師とは違う。ボディーガードのようなものだ。自分が担当する人間を保護し、霊能者としての仕事の、あらゆる面を監督する役目を担っているのだ。だれにでも霊的案内役がついているというわけではないが、霊能者や霊媒はすべて、霊的に保護されている。アメリカン・インディアンは、心霊分野ではエキスパートだと考えられているので、心霊分野の仕事をする人間を守る役目によく選ばれる。自分の案内役の名前を教えてもらえるというのは、とても名誉なことだ。案内役は、師とは違い、保護者と連絡者の役目を果たす。霊能者が否定的な影響を受けないように、できる限り守るとともに、この世と霊界の橋渡し役になってくれるのだ。
 私がはじめて体験したあの世の霊視ヴィジョンの中、スクリーン上に現れたアメリカン・インディアンは、それ以来ずっと私についてくれている。あとになって、彼がホワイト・フェザーという名前であることを知った。彼が力を貸してくれたおかげで、私は霊界のさまざまな側面を見ることができた。彼と一緒に霊界を訪れるのは、寝ているあいだのことが多い。だが目覚めているあいだにも、アストラル界のヴィジョンは私のアストラル・スクリーン上に、フラッシュとなってしばしば現れる。時間は一定していない。ヴィジョンの中に現れる画像は数秒だったり、数分だったりする。そういったヴィジョンは確かに超自然的な感じがするが、同時に実にリアルでもある。
 私は、自分の身に起こる心霊現象に、恐怖感を抱いたことはない。一度もない。カンバスに筆を下ろすことを恐れるアーティストがいるだろうか? 恐怖心が沸き起こるのは、芸術に対する愛が競争の対象になったり、あるいは恐ろしいものだと教え込まれたりしたときだけだ。
 子供のころ、暑い夏の日、シュウィン社製の青い自転車に乗って、自然の奥深くまで入っていくのが好きだった。腰を下ろして休むのにぴったりの日陰の場所を見つけては、一人で気楽に過ごしていた。そんなとき、ほんの少し神秘的な気分になることがあった。そういう特別なときには、ヴィジョンがより鮮明に現れたものだ。そして画面には、いつもあの大柄なアメリカン・インディアンの友人の姿があった。
 そのころの日記を読み返してみると、その概念を定義する的確な言葉は知らなかったものの、当時の私か輪廻転生やカルマを理解していたことは明らかだ。
 その案内役の名前をはじめて知ったのは、私か二十代になってからのことだった。そのとき彼は、私がコンサルティング中にいつもすわっているリビングルームの青い椅子の横に立っていた。胸の前で腕を組み(十歳で彼をはじめて見たときと同じポーズ)霊聴力を使って、私の胸に自分の名前を刻みつけてきたのだ。
 頭の中で、力強く、はっきりとした声が響いた。「私の名はホワイト・フェザー。私が必要なときは、その名を念ずるがよい。私は、あなたから遠く離れるようなことは決してしない。あなたを見守るのが私の任務だ。あなたが生まれたときから私はずっと一緒にいた」
 子供のころから彼のことは知っていたので、私は敬意をもってうなずき返した。彼の名前が
必要だと思ったことはなかったが、友人であり霊の仲間である人物を名前で呼べるようになる
と、私たちのつながりはより高まっていった。
 忘れないでいただきたいのだが、私にとってこういった出来事はまったく日常的なものなの
だ。私の生活からは切っても切り離せないものだと言える。ホワイト・フェザーと私は、二人で一人だ。
 ホワイト・フェザーは、いつも役立つメッセージで、私を感動させてくれた。いまでも、アストラル界を訪れるときはいつも私と一緒にいてくれる。腕を組み、落ちつき払った態度で、私の旅のあいだ中ずっと案内してくれるのだ。
 私の命を救ってくれたことも、一度ならずある。混雑したニューヨークの交差点を横断しているとき、目に見えない腕が私をひっつかみ、暴走タクシーから救ってくれたのだ。まわりにいた人たちは、そのタクシーの進路から文字どおり飛び退く私を見ながら、息をのんでいた。おびえる通行人に、私はこんなジョークを飛ばした。「私には、守護天使がついているみたいだわ」。その人は、十字を切ると、何かもぐもぐと言っていた。私はホワイト・フェザーに感謝しながら、道を渡るときはもっと注意しなければ、と心に誓った。

(中略)

 ホワイト・フェザーは守ってくれるだけでなく、連絡係もこなしている。クライアントとの面会時、そのクライアントの愛する故人の、生き生きとした画像を受け取ることがある。私の思考を拾い上げたホワイト・フェザーが、その人の霊魂が住む界層にいってくれるのだ。彼はその霊魂に、ほんの数分ほど時間を割いてほしいと告げると、私がその人物に焦点を合わせられるよう力を貸してくれる。これは、この世に残された人が、カルマによってメッセージを受け取る権利を得ている場合に限られる。霊魂となった故人は、その場合は敬意を払って、喜んで協力してくれるのだ。
 私は、霊魂のほうが望まない限り、彼らをこの世へと引き連れてこようとしたことは、かつて一度もない。他界した人のほとんどは、霊界で非常に多忙な毎日を送っているものだ。彼らは、この世を去ったとたん、物質界とのつながりには、ほとんど興味を失ってしまう。いくらその人のことが忘れられないからと言って、無理やりこちらに連れてこようとするのは、自分勝手だし、失礼な話だ。
 もちろん、彼らがこの世にやってきてくれるときはある。それは必要なことだし、とても役に立つ。ただし、私の決めたことではない。私は単に、メッセージを伝達するだけだ。そういうとき、ホワイト・フェザーがとても力になってくれる。
 大切なのは、カルマである。臨死体験をして、私たちにその体験を語ったり、その人たちが人生の尊さを理解したりするのは、その人のカルマなのだ。また、霊界へメッセージを送ったり、反対に受け取ったりするのを許されるのも、カルマによるものだ。たとえば戦争で息子を亡くした母親が、彼が元気で、幸せにやっていると知らせてもらえることなどがある。偶然だれかを殺してしまった人が、その人に自分の詫びる気持ちを語らせてもらえることもある。ヘンリーがルイスに申し訳なく思う気持ちを告げにきたという話は、前にも書いた。彼は、私をとおしてメッセージを伝える権利を勝ち得ていたのだ。
 
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