第七章 悲しみのおきて

 友人のニッキーが他界したとき、涙が止まらなかった。これでニッキーも、もう恐れることも苦しむこともなくなった、とうれしく思う一方で、彼のことが恋しくてたまらなかったのだ。彼がこの世を去ってから少なくとも半年のあいだは、ふと彼に連絡しようと電話を手にしては、彼がもうこの世にいないことを思い出す、ということを繰り返していた。彼を愛していた人間はみな、この喪失感を乗り切ろうとお互いに助け合ったものだ。私たちは、彼のこと、彼が自分たちにとってどんな存在だったかということを話し合った。感情を無理に押し殺すようなことはしなかった。私たちはともに泣き、ともに笑った。ニッキーは私たちにすばらしい思い出を残してくれたのだ。数多くの感動的な思い出。そしてそれに負けないくらいの数の、ユーモラスな思い出。時間が、彼を失った痛みをいやしてくれた。
 悲しむことは、人生で避けてはとおれない。悲しみはつらく、ときとして理性を失わせる。もう悲しみは乗り越えたと思っていても、予告もなしに舞い戻ってきたりする。劇場で映画を見ているとき、聞きおぼえのある歌を耳にしたとき、悲しみは顔をのぞかせる。ニッキーが他界してから数力月後、ラジオから彼のお気に入りの曲が流れてきただけで、彼を失った悲しみが再び私に押し寄せてきたものだ。
 ニッキーはよりすばらしい人生に向けて旅立った。だが私の心の中には、ぽっかりと穴が開いてしまったのだ。彼の妹が、彼がいちばん大切にしていたものを送ってきてくれた。金色の羽根だ。ニッキーはホワイト・フェザーのことを知っており、彼はその霊的存在を敬意をもって認めるしるしとして、その羽根を買ったのだった。私は、ニッキーのバイブレーションを放つその羽根を手にすると、また涙を流した。
 悲しみは、すばらしくも厳しい教師だ。私たち人間が立ち向かうべき闘いだ。話し合い、号泣、時間、そしてお互いの助け合いによって、その闘いを勝ち抜くことができる。悲しみは、物質界が一時的な状態であるということを私たちに思い出させてくれる。私たち人間はだれを所有することもできない、必ず別れを言わなければならないのだということを、理解させようとしているのだ。
 私の流す涙は、ニッキーに向けられたものではない。私の個人的な喪失感に、そして彼を恋しがる人間に向けられたものなのだ。
 私たちは、素直に悲しみにひたる必要がある。もし、寂しさ、心の傷、怒りなどを表に出さずにいたら、気分が滅入ってしまうだろう。感情は、抑えても消え去ることはない。いくら必死になって避けようとしても、いつかはその怒りに満ちた顔をのぞかせてしまうものなのだ。

 時間よ! 私ではなく、おまえがこの糸を解いておくれ。
 こんなにもつれてしまっては、もう私の手にはおえない。
 (シェークスピア作『十二夜』)

 悲しみがいやされる期間は、人によってさまざまだ。苦悩する人を相手にする場合、辛抱強くならなければいけない。いつまでも悲しんでばかりいる人を見ると、つい「自分の生活を始めなさい。もう十分に悲しんだじゃないの」と言ってしまいそうになるものだ。だが苦しむ遺族にそういう言葉を投げかけると、彼らをさらに絶望させ、孤独に追い込んでしまうこともある。
 あまりに深い悲しみに暮れる人の姿というのは、見ていてつらい。多くの人が、悲しむ友人の姿を目の前にすると、自分など何の力にもなれないのでは、と思ってしまう。だからどうしてよいかわからずに、つい友人を避けてしまうのだ。
 だが悲しんでいる人の話を聞いてあげることが、必ず助けとなるのだ。人が苦しみを解き放つには、その苦しみを口に出す必要がある。悲嘆に暮れる友人と一緒に時を過ごしてあげてほしい。おそらく相手には救いを求めるほどの気力は残っていないだろうから、私たちのほうからいつでも救いの手を差し伸べられるようにしておかなければならない。
 悲しむ人と一緒にいてあげるということは、人の役に立てるというすばらしい機会なのだ。愛する人間を失い、嘆き悲しむ友人たちと一緒にいれば、どうやったら人を助けられるのかということがわかってくるはずだ。ただ、人それぞれの場合に、微妙に応じる必要がある。
 中には、ただ黙って一緒にいてくれるだけでいいという友人もいるだろう。また、思いきり泣かせてあげたり、夕食に連れ出してあげるほうがいいという場合もある。怖がらずに、手を差し伸べてあげてほしい。あなたの愛情と思いやりは、とてもありがたがられるはずだ。
 死後の世界と輪廻転生について、深く、敬虔な信念を抱くことも、過度の悲しみから身を守るための、強力な助っ人だ。霊となった知人が、私たちの嘆き悲しむ思考パターンのために混乱させられるかもしれないとわかっていれば、いつまでも悲しみにひたってぽかりいてはいけないと思えるはずだ。
 人間だれしも、愛する人間を恋しく思うし、一緒にこの世にいられることを願う。たとえ永遠の別れではないとわかっていても、さようならを言うのは、だれにとっても簡単なことではない。
 だが、死というものは存在しない――かたちが変わるだけ――と確信していれば、いつまでもぐずぐずと嘆き悲しんでばかりはいられないはずだ。友人が、生涯最良のバカンスに出かけてしまったと言って、取り乱したように泣きじゃくっているようなものだからだ。
 あの世を見ることができ、故人からのメッセージを受け取ることができるという私の才能は、自分を含めて多くの人々が他界のプロセスを理解する上で役立ってきた。その才能のおかげで、私は死に直面しても恐れを感じない。でもそういう特別の才能があるからと言って、人間的な感情を抑えきれるというものでもない。
 私の人生は、いままで他界した多くの大たちのおかげで、大いに豊かなものとなった。彼らの思い出は、いつでも昨日のことのようによみがえってくる。彼らという存在のおかげで、人生がよりすばらしいものになった。私は、彼らへの感謝の気持ちを表すつもりで、自分の人生を懸命に歩んでいる。自分がそうされたいと思うようなかたちで、友人たちの他界に対処している。彼らを恋しく思い、涙を流したあとは、あの世へと旅立たせてあげる。恋しがられるというのは、一種の賛辞だ。それは、自分が人の人生に影響を与えたということなのだから。だが、私の不滅の魂に対して、時間とエネルギーを費やして悲しんでばかりいられたら、私のほうも心が痛むはずだ。
 他人に尽くすという行為は、悲しみをいやすにはとても効果的な薬である。恋しく思う人間を物質界に連れ戻すことはできないが、他人を助けることで、彼らの思い出に報いることはできる。自分の人生を歩み続けるというのは、故人に対する忠実心に欠けていることにはならない。普段の生活を続けながら、愛する人間の思い出に誠実であることはできるのだ。
 死は、一時的な別れである。愛する人間とは、いつかまた会える。私たちは、人生への情熱を通じて、愛する人間の思い出をいつまでも大切にしておくべきだ。この世で過ごすそれぞれの瞬間が、だれかを助けるための機会となる。
 
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