ペットが死ぬとき
誰も教えなかった別れの意味
シルビア・バーバネル 著 近藤千雄 訳・編
ハート出版
 

     リンダフ・ハーガビー

 驚くほど知的で、愛らしくて忠実で、ちょっぴりわがままで勝気で、手を焼かせることもあった“バリー”という名のセントバーナード犬が、今その巨体を横たえて、12年の生涯を閉じようとしている。
 最後の呼吸に喘いでいるその姿は、いかにも苦しそうで、哀れだ。
 いよいよ死期が近づいたと思えた時、バリーは最後の力をふりしぼって体を起こし、頭を私の顔に近づけて、情愛あふれる目で私の目を食い入るように見つめた。その目が、言葉よりも雄弁に、こう語っていた――
「ボクはこれであの世へ行くけど、向こうで待ってるよ。また会おうね」と。
 バリーの生涯は、私にとっては「魂」の存在を教えてくれる啓示の連続であり、それが人間による残虐行為によって苦しめられている動物の保護活動への大きな拍車となっていた。死ぬ間際に見せたあの目が語っていたメッセージは、私への献身の不滅性を忘れぬようにとの、必死の訴えだったと思う。
 それから数年後のことである。死んだはずのバリーが、この目で見、この手で触れ、この耳で聞ける形体をそなえて、交霊会に出現したのである。が、その話はここでは述べない。このユニークな書の中でバーバネル女史が、動物の死後存続について、疑い深い人間を驚かせ宗教家を戸惑わせるような証拠を、十分に提供してくれているからである。
 本書のメインテーマである動物の死後存続は、実は、ことさらに新しいテーマではない。目新しいことと言えば、それを証拠だてる膨大な量の事実が単純明快で常識的に述べられていること、つまり「死んだ」はずの動物が地上へ戻ってきて、今なお存在し続けていることを示す数多くの例証が紹介されていることで、それは、「伴侶」を失って悲しむ人々の慰めとなるであろう。

 1937年にW・H・コック氏が『動物と来世』(来翻訳)という著書を出された。英国国教会の牧師であり理学博士でもあったコック氏は、もしも人間に来世があるのなら、進化論を信じる者は、動物界のあらゆる種属にも――いかに進化の程度が低くても――それぞれの来世があるはずであることを主張した。氏は言う――
「創造主は人類だけを進化させたのではない。人類と同じく霊的創造物であり、究極的には必ずしも人類に劣らず、かつ又、その個性と特質をさらに発達させるための来世をも有する、他の種属をも地上で進化させてきて、今なお進化させつつあるのである」
 コック氏は生物界は全体として一つであり、何一つとして完全に隔離されているものはないという事実を強調する。こうした重大な真理を斬新な目で認めている点を、動物をあたかも、ただの(魂のない)生き物、または創造主の“うっかりミス”の産物、ないしはビーフやベーコンの原料としか考えない宗教家は、真剣な反省の材料とすべきであろう。
 われわれ人間は、生物進化の法則によって、動物と緊密な関係にあるという事実から、もはや逃れられなくなっている。バーバネル女史はその発生当初からのつながりに着目している。人間と動物の間には完全な仕切り、絶対的な境界線というものは、事実上、存在しないのである。

 比較宗教学者は世界の宗教の中にあって動物が果たしている大きな役割に十分な関心を向けていない。その内側に秘められた人間味に満ちた意義を取り損ねている。
 たとえば未開人の間に見られる自然物崇拝、人間が動物に生まれ変わるという信仰、動物の崇拝、ある種の動物を神聖視し、かつ人間を守ってくれるものとして特別扱いにする風習などには、単なる好奇心を超えた深い意味があるのである。
 古代エジプトにおいては、多くの種類の動物が聖なるものと見なされ、神性が宿ると信じられ、神々の化身とされた。中でも犬は大切な化身であり、猫も内省の儀式における具象物とされた。著名な考古学者、ジョージ・ライスナー博士によると、エジプトにおいて犬が大へんな丁重さと儀礼をもって葬られたことを物語るものが発掘されているという。時の王様の命令によって墓までこしらえてもらったその犬の石碑には次のような文が刻まれている。
《この犬は「国王陛下のボディガード」と呼ばれ、その高貴さゆえに、死後、誉れ高き霊として、大神のもとに召されることであろう》
 この碑文には、その犬の霊が死後もその王様の霊に仕えるようにという祈りが込められているのである。
 動物の霊魂、転生における人間と動物との内的関係、慈悲と情愛による両者の絆、親近関係における人間の義務等々は、ヒンズー教や仏教の経典、古代ペルシャや中国の宗教説話、ギリシヤやスカンジナビアの神話、インドのアショカ王の活動の中で説かれている。
 また忘れてならないものに、キリスト教聖者の物語がある。アッシジの聖フランチェスコが小鳥と話を交わし、オオカミに悪いことをしないように強く諌めた話(魂がなくては善悪の分別はつかないはずだ)、聖ロシュが犬のおかけで疫病による死を免れた話など、いくつもある。
 キリスト教聖者に見られる大きな特徴は、動物を人間の伴侶および援助者と見なしていることである。同じ神の創造物として、進化こそ遅れているが、人間と一体関係にあるものと見ているということである。にもかかわらず、私が不審でならないのは、そうした聖者を崇敬の対象としている人たちが、動物を魂のない下等な存在として軽視し、もてあそんでいることである。
 いずこの国でも、国威の象徴や紋章をライオンとかワシ、クマ、オンドリなどに求めている事実を考えても、動物を軽視する考えは断じて間違いであり、その間違った考えが残虐行為の源泉となっていると思われるのである。

 私は、書物を二つのカテゴリーに分類することにしている。「生命力あふれるもの」と「継ぎはぎだらけのもの」である。生命力あふれる書物は、真剣な生活、真実の観察と追求、全身全霊を打ち込む態度と寛容精神の産物である。
 これとは対照的に、ただの言葉の羅列、他人の説の借用、それに、時には愚にもつかぬ当世風の安っぽい言い回しをしてみたり、格好をつけて精神分析学的なややこしい説を立てたりする。その違いは、太陽の輝きと月の光の違いにたとえることもでき蒐集し。そしてまとめたものである。
 バーバネル女史によるこの著書は、まさしく「生命力あふれるもの」の中に入る。生き生きとして人を楽しませるものがあり、示唆に富み、刺激的である。何も知らずにいる人には「有るはずがないもの」を扱っている(いつの時代にも大発見や大発明といわれるものは一般の人にとっては「有るわけがない」と思われるものばかりだった)。心霊実験会における信じられないような現象――人間も動物も物的身体が滅びたあとにも生き続けることを証明する現象――を、女史自身が直接(じか)に観察し、記録し、蒐集し、そしてまとめたものである。
 が、女史はそうした証拠を紹介することによって、死後も生き続けることは人間だけではなく動物についても間違いなく断言できることを読者に得心させようとしている。つまりは、可愛がっていた動物に先立たれて我が子を失ったような悲しみを味わっている人のために書かれたものと言ってよいであろう。
 が、それが意味するところのものが及ぼす影響は絶大である。動物の肉や皮で商売をしている人にとっては、困ったことになるであろう。動物は人間の都合のよい便益のために存在すると勝手に考えている人々は、気まずい思いをさせられることと思う。なぜなら、食肉のために残酷な手段で殺したり、医学の進歩という美名のもとに惨(むご)い実験のための材料として使った動物が、実は肉体を失ったあとも、同じ姿の霊的身体を具えて霊界で生き続けているのである。
 そういう動物たちと霊界で再び会うことも有り得ることになる。万物の霊長たる人間の尊厳と優越性が危うくなりはしないだろうか。

  動物保護協会初代会長
    リンダフ・ハーガビー
 
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