ペットが死ぬとき
誰も教えなかった別れの意味
シルビア・バーバネル 著 近藤千雄 訳・編
ハート出版
 

 16章 霊的知識が要求する新しい道徳観

 前章で紹介したオズボーン・レナード女史は、霊能者の大半がそうであるように、ある特殊な土地から発せられるバイブレーションに過敏に反応することがあるそうです。
「サイキック・ニューズ」に載った女史の体験談によると、ロンドン北部の一角に、いつも陰気で憂うつな気分に襲われる場所がありました。女史は読書好きで、よく図書館に通うのですが、そのとき必ずその地点を通過するというのです。そのときの気分は強烈で、その気分から解放されるのにかなりの時間が掛かったそうです。
 そのうち女史は、その原因を真剣に考えるようになりました。その気分に襲われるのはきまって高いレンガ塀のところに差し掛かった時です。とても高い塀で、その門はいつも閉じられていて、中が見えません。工場か倉庫だろうと女史は思っていたそうです。
 そんなある日、いつもと違う道を通って図書館へ行った時、異様な気分に襲われる場所があり、見ると門の扉が開いています。中をのぞいてみると、その広い敷地をたくさんの仔牛がどこかへ連れて行かれる光景が目に入りました。
 そこへたまたま通りかかった人に「ここは何をする所ですか」と尋ねると、大規模な「と場」だということでした。レナード女史もこれで納得がいきました。不快なバイブレーションはそこから放たれているのでした。

 では、そうした施設で大量に殺されていく動物たちは、死後、どういう運命をたどるのでしょうか。これから紹介するのは、レナード女史が幽体離脱の状態で霊界を訪れて、そうした動物の群れを観察した時の様子を綴ったものです。
 幽体離脱というのは、人体とよく似た形をした「幽体」と呼ばれる霊的な身体に宿って肉体から離れ、地上界ないし霊界を探訪する現象のことで、その間、肉体と幽体は「玉の緒(※@)」と呼ばれるもので繋がれています。それが切れた時が「死」で、要するに肉体からの離脱が一時的か永久かの違いにすぎません。

※@――生命の綱という意味で「ライフ・コード」と呼ぶこともある。日本語では「魂の緒」と書くこともある。――訳者。

 では、レナード女史の体験をMy Life in Two Worlds(二つの世界にまたがる生活)から引用してみましょう。

 ある夜、肉体から出たあと私は、いつものように上昇して行かないで、無理やり水平飛行をさせられているような、重苦しい感じがした。気がつくと、暗くて狭い通りに立っていた――というよりは、立っている姿勢を保っていただけで、地面に足をつけていなかった。足もとが汚泥で気持ちが悪かったからである。
 あたりを見回すと、家畜小屋のような汚い建物が密集していて、建物と建物の間は人間がやっと通れるほどしか空いていない。が、ところどころ、広く空いているところがあり、そこから囲いのある広い敷地へと通じている。
 そこから中をのぞいてみると、そこには動物の群れがいる――仔牛、豚、羊など――が、みんな死んでいる。いや、生きている――地面に横だわったまま身体を動かしているのだ。私にはピンと来た。今しがた「と畜」されたばかりなのだ。
 私は、ありたけの精神力をふりしぼって、その光景を見つめた。よほどの精神力がないと、とても見られたものではなかった。それほど惨(むご)たらしい雰囲気に包まれていたのである。私はこれまで、平均的人間が死後ただちに赴く世界をたびたび訪れてきたが、この場所はそれとはまったく異なり、一種異様な恐ろしさが漂っていた。が、それが一時的なものであることは私にも分かっていた。が、ともかくも私にはこれ以上その状態を叙述する気にはなれない。
 そのうち誰かが私に語りかけているのを感知した。姿は見えず、遠いところにいるような感じがした。あとでその声の主は私の背後霊団の一人であることが分かったが、その霊が教えてくれたところによると、その動物たちが置かれている場所は地球と幽界との中間に位置しているとのことだった。
 あの惨たらしい雰囲気は、人間の食糧として毎日のようにおびただしい数の動物が物的身体を奪われていく、その忌むべき行為から生まれるもので、物質界にきわめて近接した界層にあり、本格的な幽界に入らない中間地帯であるという。
 その恐怖と苦痛、それに、誰をということもない恨みの念があたりに渦巻いていて、それが、建物や壁よりもなお強い存在感をもって迫ってくる。さきほどの背後霊は、その念、その感情の波動を何とかしなければならないのだと言っていた。
 それは、動物たちがどれほど苦痛を味わっているかの指標であるばかりでなく、それが地上界の霊的ならびに精神的大気を汚し、人間生活を毒し、進歩を阻害しているからだという。


 レナード女史は、この体験をしてからは、動物の肉を食べるのを止めたそうです。それまで女史は、肉を食べながらそれが、かつては人間と同じ大気で呼吸しながら大地を闊歩していたのだということ、そして、殺される時は人間と同じ苦痛と恐怖を抱いたのだということに思いが至らなかったと述べています。
「しかしですよ……」と反論する方がいるかも知れません。
「もしも殺さずにおいたらどうなりますか? 地球上に動物があふれはしませんか?」
 またある人は、キツネやウサギがもたらす人間環境や農作物への破壊行為の話を持ち出し、人間が殺しているから大したことにならずに済んでるのだと主張するでしょう。
 お答えしましょう。まず牛をはじめとする家畜の問題ですが、人間が食肉用に飼育しさえしなければ、そんな問題は生じないのです。肉類は必ずしも必須の食糧ではありません。植物食だけで十分に健康を保っている人が大勢います。道徳的理由からだけでなく、健康上の観点から肉食を止めた人は、そのほとんどが健康を取り戻しております。
 私は、「と畜」を即時中止させよとか、今日から肉類は一切摂るなと言っているのではありません。それは出来ない相談です。が、私が訴えたいのは、あなたが食している肉は、あなたと同じ物的身体をもち同じ空気を吸って生きていたのを、人間の身勝手で命を奪われ食用にされた動物の身体だということ、そして、人間と同じ苦痛と恨みを抱きながら死後の世界へと連れて行かれたのだという事実を知ってほしいということです。
 殺す前に苦痛を与えて太らせたり、味を良くするための処置を施すのも、本来は人間の良心が許さないことであるはずです。たとえば鶏の生殖腺を除去するのは、肉の味を良くするためだそうですが、その手術は麻酔もせずに、しかも医学には素人の者がやっていることをご存知でしょうか。
 またフランス料理で有名なフォワグラは、無理やりに過食させて病的に太らせたガチョウの肝臓を使うのですが、エサを詰め込む道具を使用してわざわざ病気になるまで食べさせておいて、それを殺して病的な肝臓を食べるというのですから、どう考えても健全な食生活とはいえません。
 残念ながら私の国の英国でも大変人気のある料理だそうですが、禁止している国もあることを知っておくべきでしょう。
 毛皮の問題もぜひ考えてほしいものです。あなたが着用する動物の毛皮はどれほど高価なものかは存しませんが、そのために動物たちがどれはどの苦痛を味わったかをお考えになったことがあるでしょうか。
 動物の保護や愛護のための活動をしている施設へ行けば、身の毛もよだつほどの現実を語ってくれることでしょう。
 
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