ひふみ神示(日月神示)E
なわ・ふみひとの超解釈

 親呼ぶ赤子の声で神を求めよ  [TOP]

神は理屈ではない。理(みち)であるぞ。生きた自由自在の、見当とれん絶対であるぞ。ただ求めるより外に道はないぞ。親呼ぶ赤子の声で神を求めよ。神に呼びかけよ。すべてを投げ出せよ。まかせ切れよ。神は喜びの光となって、そなたに現れてくるぞ。理屈の信仰に囚われると邪道。赤子心の理解は第一ぞ。(黒鉄の巻・第26帖)

 理屈でなく心の底から神を信じることを「赤子心」と表現しています。まったく同じ内容が新約聖書の中でもイエスの言葉として繰り返し述べられています。幼子が親を信じ切って任せきる(全託する)気持ちこそが、この終末の時代には特に大切になってくるのです。


●神まかせがよい人民であるぞ。この神と認めたら理解して、まかせ切れよ。(中略)雨降らば雨を、風吹けば風を、ひとまず甘受せよ。受け入れずにはね返すのは大怪我のもと。何回でも何回でも同じこと繰り返さねばならんことになるぞ。何か迫りくるのは、何か迫りくるものが自分のなかにあるからぞ。内にあるから外から迫るのじゃ。自分が呼び寄せているのじゃ。(春の巻・第16帖)

 大切なのは「神に任せ切ること」だと諭してくださっています。「雨降らば雨を、風吹けば風を、ひとまず甘受せよ」ということです。「自分に降りかかる出来事は、すべて(身魂磨きのために)必要なことなのだ」という考えに立てば、一つひとつの出来事に心を煩わせ、過去を悔やみ、未来を不安に思う必要はなくなるのです。

 もちろん、自分は何の努力もせずに、ただ「神様お願いします。守ってください」という姿勢は良くないのです。「天は自ら助くる者を助く」という言葉の通り、自助の努力は大切だと述べられています。その努力とは、この世で生き延びるための努力ではなく、自らの内にあるものを浄化する努力というべきものです。「世の中全体が平和であるようにと祈り、そのために自ら実践する」ことが大切なのです。「自分や自分の身近な者だけが助かりたい」という我善しの気持ちでは助かることはないということです。次の神示にそのことが述べられています。

神にまかせきると申しても、それは自分で最善を尽くしてあとのことじゃ。努力なしにまかせるのは悪まかせじゃ。悪まかせ多いのう。(春の巻・第26帖)

●カミヒトと申すのは、神の弥栄(いやさか)のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのじゃ。自分のためばかりで祈れば迷信、我善しの下の下ぞ。(春の巻・第2帖)

 「
身魂磨きの要諦は、良くない心の癖を直すこと」というのが、私がこの人生で到達した結論です。そのことは日月神示にもたびたび出てきます。次の神示もその一つです。

●なくて七癖、七七四十九癖。悪い癖直してくだされよ。天国へ行く鍵ぞ。直せば直しただけ、外へひびくものが変わってくるぞ。よくなってくるぞ。変わってくれば、外からくるもの、自分にくるもの、変わってくるぞ。よくなってくるぞ。幸せとなるぞ。よろび満ち満つぞ。(春の巻・第12帖)

●自分はよいが、世の中が悪いのじゃと申しているが、その自分省みよ。自分が神の理(みち)にあり、真実であるならば、世の中は悪くないぞ。輝いているぞ。自分にふりかかってくる一切のものは最善のものと思え。いかなる悪いことも、それは最善のものであるぞ(中略)世を呪うことは自分を呪うこと、世間や他人を恨むことは自分を恨むこと。このこと悟れば、一切はそこから開けくるぞ。十のもの受けるには十の努力。(春の巻・第13帖)

 ここでは「
悪い心の癖を直すことが天国に行く鍵」と表現されています。私は「終末への備え」はこれに尽きると思っています。食糧危機に備えて田舎に疎開したり、核爆弾を恐れて核シェルターを準備したりしても、助からない人は助からないのです。逆に「助ける人はどこにいても助ける」という日月神示の神様の言葉を、私は文字どおり「赤子の気持ち」になって素直に信じています。
 
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