山本五十六の大罪
WILL 2008年8月号 「天地無用」 

推 進

 大東亜戦争が国民を悲惨な窮状に陥しいれた根本の真実が、今ようやく中川八洋(『山本五十六の大罪』)によって曝露されている。良識派として偶像化されている米内光政が、実際に採った行動は以下の如くであった。
 昭和12年、廬溝橋事件を引き起こした運命の一発が、毛沢東の軍隊による仕業であった事実は周知であろう。しかしこの悪辣な罠を警戒した日本陸軍では1カ月後もなお不拡大派が主流であった。しかるに8月10日の閣議で、海軍大臣米内光政は上海への出兵を強引に要請する。8月12日、米内は首相近衛文麿の支援を得て二個師団出動を決めさせた。
 それのみならず8月14日の閣議で米内大臣が「南京占領」を唱えている。このとき外務大臣も陸軍大臣も反対した。すなわち南京占領に至る上海戦を推進した筆頭が米内光政である。興奮した米内は総理でもないのに8月15日午後7時半、「頑迷不戻(ふれい)な支那軍を膺懲(ようちょう=こらしめること)する」と、支那(チャイナ)への宣戦布告とも見倣し得るラジオ演説までした。のち無駄な戦死者を増やすのみであった「特攻」作戦を裁下した高官5名の1人が米内光政であった事は否定できない事実である。

怯 懦
 中川八洋の調査によれば、山本五十六の行動は奇怪きわまる。
 彼が発案した真珠湾奇襲作戦は海軍部内の承認を得た検討の結果ではなく、及川古志郎海軍大臣に送った書簡一通によってのみ伝えられたにすぎない。事実、山本が奇襲部隊の出撃を敢行したのは、ハル・ノートが日本側に手渡されるより以前であった。この奇襲が何等の戦闘的実効をもたらさず、遂に米国の戦意を高めるのみに終わったのは申すまでもない。
 そして日本の敗北を決定的にしたミッドウェー島攻略作戦の時機に山本は何処に居たか。真珠湾の時と全く同じ、聯合艦隊の司令部を瀬戸内海に置き、戦艦「長門」「大和」「武蔵」と居を移しつつ、賭博好きの本性を顕してカードに耽り、将棋をさして優雅な生活を送っていた。
 ミッドウェー海戦の大敗北のあと、その責任をとるどころか、日本国内に対して敗北を隠蔽するのに腐心する。空母4隻から生還した第一級のパイロットたちをバラバラにして次々と遠方の前線に配属し、生証人が残らないように死線の境に送り込んで敗戦を帳消しにした。

欺 瞞
 昭和19年、台湾沖航空戦の報道では、大本営海軍部の発表を丸呑みする各新聞によって次の如き戦果が謳いあげられた。
 すなわち、撃沈は空母11隻/戦艦2隻/巡洋艦3隻、撃破は空母8隻/戦艦2隻/巡洋艦4隻、記録的な大勝利である。しかし中川八洋の解明するところ実際は、米国の空母も戦艦も、1隻たりとも撃沈していない。米国側で被弾大破したのは巡洋艦2隻のみであった。これが日本海軍の戦闘機300機以上と、同数のパイロットを失った末の代償であった。大本営の嘘もすでに極限に達していたのである。海軍は昭和天皇と国民を終始欺き通した。
 陸軍は海軍が公言したこの虚偽戦果に基づいてレイテ島作戦を立てた。その結果は8万人部隊の97%以上の戦死者を出した史上空前の全滅である。これらの悲劇を生んだ嘘の提造はすべて大本営海軍部の画策であった。
 戦後、旧海軍の連中が記述した内容が虚偽とねつ造に満ちている実態を中川八洋はごっそり調べた結果を要約し、それらがことごとく嘘と脆弁によって構成されている内幕が実証された。これら綿密な証明に接すれば、誰でもが寒疣(さむいぼ)の立つ思いを味わうであろう。

★なわ・ふみひとのコメント★ 
 山本五十六はフリーメーソンであり、日本を敗戦に導くために大きな役割を果たした人物です。そのため、真珠湾攻撃の発案者でありながら、東京裁判では全くその罪を問われることなく、戦後も“名将”であったかのような報道や出版がなされています。世界を支配する闇の権力に高く評価された“功労者”だからです。
 山本五十六は戦地で敵戦闘機に攻撃されて死んだことになっておりますが、これが偽装死であることは『山本五十六の最期』(蜷川親正・著/光人社NF文庫)を読むとよくわかります。海軍の中枢のほとんどが世界支配層によってコントロールされていたということです。
 その結果、戦後東条英機を初めとする陸軍は徹底的に戦争犯罪人として断罪されていますが、海軍にはそのような批判は寄せられていません。しかしながら、アメリカとの戦争の火ぶたを切ったのは真珠湾攻撃なのです。山本五十六は、アメリカが国内世論を第二次世界大戦への参戦に導くための口実をつくった立役者なのです。その真珠湾攻撃で、山本五十六が「自ら指揮を執るから」と言っておきながら、実際は瀬戸内海に浮かぶ戦艦の中で悠々と過ごしていたことがわかっています。
 以下は、その事実を明らかにした中川八洋氏の『山本五十六の大罪』(弓立社)の中の一文です。

怯懦に生きた“世界一の臆病提督”山本五十六

 山本五十六とは、決して戦場には出撃しない、現場指揮はとらない、安全圏にいて自分の命を惜しむ、“卑怯”の2文字を絵に猫いた、史上最低の高級軍人だった。連合艦隊司令長官でありながら、空母六隻を出撃させながら、パール・ハーバー奇襲の指揮を執らず、部下の南雲忠一・中将にそれをさせて、自分は瀬戸内海に浮かぶ「戦艦ホテル」で優雅な日々を過ごしていた。
 1905年5月の日本海海戦で、東郷平八郎が旗艦「三笠」の艦上ではなく、佐世保(長崎県)港に浮ぶ軍艦の一つで読書しながら、ただ吉報だけを待っていたなど、想像できようか。あるいは、1805年のトラファルガル海戦で、「隻腕の大提督」ネルソンがロンドンから指揮を執っていたなど、歴史の if としても考え付くものはいまい。
 しかも、パール・ハーバー奇襲は、山本五十六本人の発案である。自分が陣頭指揮を執るからと、海軍全体の了解を得たものである。ところがいざ出陣になると、山本は、「公約」を破り捨て、“率先垂範の指揮”という海軍伝統をも無視し、カード三昧の日々であった。

山本五十六は死刑――海軍刑法第四四条

 1942年6月のミッドウェー海戦の場合はもっとひどく、山本五十六の指揮官としての臆病ぶりは、日本の戦史にも世界の戦史にも、こんな武将は前例がない。山本は、世界史上、“最悪・最低の狂将”だった。織田信長や豊臣秀吉はむろん、徳川家康や黒田如水ですら、即座に切腹を命じただろう。山本五十六を「スーパー臆病」と断定してよい理由は、以下の通り。
 第一は、ミッドウェー島攻略戦の発案者で最高指揮官でありながら、しかも戦艦「大和」に坐乗しているのにもかかわらず、空母四隻の前方にいるべき山本の「大和」が、あろうことか、この空母4隻よりはるか後方540qに「逃亡=職場放棄」していた事実。
 第二の理由は、4隻の空母の、3隻(赤城、加賀、蒼龍)が轟沈していくとき、山本五十六は、「遊び人」らしく将棋を差していた事実。前代未聞の「職務放棄」。
 この「職場放棄」と「職務放棄」は、海軍刑法第四四条、もしくは第三八条の定めに従って、山本五十六の罪は死刑である。

第四四条 指揮官はその艦船軍隊を率い 故なく守所もしくは配置に就かず またその場所を離れたるときは左の区別に従いて処断す
1、敵前なるときは死刑に処す
 (以下略)
 ―― 『山本五十六の大罪』(中川八洋・著/弓立社)


 この内容に関心をもたれた方は、当サイトの『山本五十六は生きていた』にもぜひお目通しください。日本をアメリカとの戦争に巻き込んで多くの同胞を戦火の犠牲にする手引きをしたこの人物の魂は、いまはおそらく無間地獄で良心の呵責に苦しめられていることと思いますが、事実は事実として語り継ぐことが本人への供養にもなると思います。
 
 
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