病気へのとらわれがない白隠のイメージ療法
ここで、もう少し視点を変えてみよう。
アメリカには、カール・サイモントン博士が開発した、ガンのためのイメージ療法というものがある。別名サイモントン療法といわれる。リラックスして心にイメージを描くことにより、前頭葉や間脳という免疫のかなめとなっている脳中枢のはたらきを高め、そのことが胸腺のはたらきをよくし、ガンを攻撃するキラーT細胞というリンパ球の数を増やそうとする。この一連の考え方を精神神経免疫学という。サイモントンは、患者に「自分のリンパ球がガンと戦い、ガンを食いつぶしてゆくイメージ」を心にくりかえし描かせる。そのことによって、リンパ球の数を増やし、免疫力を高めようというのである。ガンと戦い、勝とうとする考えがそこにある。
一方、江戸中期に、日本には白隠という禅僧がいた。その白隠禅師が自らの病弱を直したものは、調心調息の丹田呼吸法である「内観の法」と、頭のてっぺんから全身に軟酥(なんそ)という万能の妙薬が流れて体を癒してゆくというイメージを描く「軟酥の法」である。江戸中期の一八世紀に非常にすぐれたイメージ療法がすでに日本で完成していたことは、たいへんな驚きである。
前者のサイモントンは、脳のはたらきにポイントを置いたが、後者の白隠は、人体下腹部にある丹田を心身調和のカギと見た。ここまでは、いままでの比較と同じである。
非常に興味深いことは、サイモントン療法が、イメージの中で局所的にガンと戦って勝とうとするのに対して、白隠は、全く病気そのものに執着していない点である。すなわち、病気そのものにとらわれることなく、生命の治癒力のみに淡々と目を向けている。
サイモントン療法は、たしかに化学療法や放射線療法などにくらべると副作用もなく、たいへんすぐれている。また、局所的に具体的にイメージを描くほうがよいケースもたくさんあろう。
しかしながら、患者のガンへの恐怖や不安が無意識下でとても強大であったり、かつ現在、体に痛みや苦しいところがあり、それに心がとらわれているような場合には、なかなかガンに打ち勝つイメージをくりかえし描くことはむずかしいものである。むしろ、意識下でのガンのイメージがとても強いときは、自分ではガンに打ち勝つイメージを描いているつもりでも、無意識の奥深い心の世界では、むしろガンに押しつぶされ、負けてしまっているというケースも多いことだろう。すなわち、知らず知らず、逆にガンに負けているイメージを無意識のうちに描いてしまうことにもなりかねない。とくに痛みがつらいときには、「やっぱりこんなことやってもだめだ」という感情が、体力の劣えとともにおこりやすいものである。
また、ガン細胞とて、自分の細胞が変化してできた自分の体の一部である。バイ菌ではない。自らの生命が理由あってつくったものとも考えられる。それでは、「いったい、自分の体と戦ってどうするのだろう?」という疑問もでてくる。どうも狩猟民族の欧米人は、「戦う発想」「攻撃して勝とうとする発想」から抜け出ることができないでいるようだ。
「ガンに対して云々」ということは、ガンという余分なものをも心の中にイメージとして描くことになる。それは、逆に病気への「とらわれ」や「執着」を生みやすい。「執着」のあるところ、明らかな結果がなかなか出ないとき、「あせり」を生じやすいものである。
その点、白隠のイメージ療法には、病気へのとらわれがない。五感をフルに使い、その妙薬が体をひたし、流れてゆくここちよい感じを味わう。あとは生命の本源的治癒力にすべてをまかせてしまっている。どこか淡々としていて、勝とうという気負いがない。完全にまかせきったような泰然としたものを感じさせる。まかせきって、ただひとときを楽しむ境地といえようか。
いみじくも、統一哲人といわれた「心身統一の大家・中村天風師は、「執着」「傾注」ということと、「集中」「統一」ということをはっきり区別している。
すなわち、心が何か事物にとらわれ、うばわれてしまうことが「執着」「傾注」であり、逆に、とらわれない不動なる心に事物のほうを自在にひきつけてしまう状態を「集中」「統一」といったのである。
前者は盲目的であり、一方後者ははっきりと物事の本質を見通すような澄みきった目を感じさせる。一点しか見えなくなって他が見えないのではなく、はっきりと全体かくまなく見透せている心の状態が後者なのである。
サイモントン療法は、それなりにすぐれているが、ここらへんの洞察が足りない。やはり人体生理の構造機能というメカニックな現象面にとらわれているためかもしれない。
そのためか、サイモントンのアプローチはやはり、「局所的」であり、白隠のアプローチは「全体的」である。「戦い勝とうとする姿勢」と「おのずと成る姿勢」のちがいを感じる。それはまさに、西洋と東洋の根本的発想のちがいでもある。
私には、「心身相互作用」ではなく、「心身一如」を直観し、「心身統一」を唱えた日本のすぐれた先人たちの洞察力に心から敬意を表したいと思う。世界に誇れる直観的洞察であろう。
しかしながら、心の世界のなんと奥深いことか。
「心というものは、それ自身一つの独自の世界なのだI地獄を天国に変え、天国を地獄に変えるものなのだ」――ミルトン「失楽園」
「人間の地獄をつくり、極楽をつくるのも心だ。心は、我々に悲劇と喜劇を感じさせる秘密の玉手箱だ」――中村天風
まさに心の世界ははかり知れない。
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