人のからだは、なぜ治る? 
ホリスティック・メディスンの知恵 
大塚晃志カ・著 ダイヤモンド社 
 
 

 病の源はわれわれの無知にある

 山梨県の上野原町にある棡原(ゆずりはら)という山村は、かつて長寿村として有名であった。ところが、長寿と食生活との関係にくわしい棡原の古守病院院長の古守豊甫博士は、この村で最近急激に中年層と若年層の短命化か目立ってきていることを指摘している。子が親より先に死ぬことをこの村では「さかさ仏」と呼んでいるそうだが、その「さかさ仏」が増えているのだ。原因は、動物性食品を中心とする高タンパク、高脂肪、高カロリーの現代食を、近年急にとるようになってきたためだという。まさに、食は寿命をも左右するのである。
 ある人は言っている。「人間は死ぬのではなく、自らの不摂生や不注意から自殺しているので
ある」と。
 また、日本全国の長寿村と短命村を、40年かけて一千か所も自ら出向いて調べた近藤正二博士は、その長年の調査研究から、長寿と短命の分かれ道は、若い頃からの「食習慣」によるものであると明言した。野菜、海藻、豆類などを常食する村には長寿が多く、野菜をとらず肉ばかり食べたり美食する村には短命が多いことがわかったのである。
 すると、化学物質もふんだんにとり、加工された肉ばかりをファストフードでとる今日の若者、子どもはほとんど全くといっていいほど、長生きできないことになる。
 人間の心の面をいくら強調してもそれでは決して解決がつかない、体質の悪化、体の弱体化という現実は、やはり人間が生身のデリケートな生物である以上、実に深刻な問題となってわれわれに迫ってくるようである。
 ある食事療法の指導者は言う。
「今の若者は、全身が宿便である」
 宿便とは、腸内に長年にわたって蓄積された、体内に毒素をまきちらす古い便のことをいう。よく断食で宿便をとると病気が治るなどということがいわれるが、もはやそのような考えは過去のものとなってきてしまっている。すなわち、骨の髄まで毒素が蓄積されているような「全身宿便」の世代の人々は、断食をして少々腸を掃除しても全く効果がないばかりか、かえってひどい貧血をおこし、命を落とすことさえあるというのだ。
 内容を吟味した、体質に合わせた少食で、本当にきれいな血液をつくり、徐々に体の毒素を排出していくしかないという。明治生まれの日本人の体が弾力のある「木造」ならば、インスタント食品時代の幕開けとなった1959年以降の日本人の体は、すぐにひびの入る「鉄筋コンクリート」か、「プレハブ住宅」であるといえよう。
 チベット仏教において生き神様といわれ、ノーベル平和賞を受けたダライ・ラマ師には、テンジン・チョーダラック師というチベット医学の長老の侍医がいる。そのテンジン・チョーダラック師に私は1989年にインドのバンガロールで会い、彼の講義を聞いたり、食事をともにする機会にめぐまれた。彼はチベット医学の根本的哲学を私にこうおしえてくれた。
「病気や不健康というものは、われわれ人間の無知からおこるものです。われわれ人間が、自己と自らの生命についてあまりにも無知であるがゆえに、病気や不健康、そして不幸というものが生じるのです。あらゆる病の源は、われわれの無知にあるのです」
 私はこの言葉を聞いて思わずうなり、身をのり出したものである。
 このことは、まさしく、私たちの「食」に対しての無知にもあてはまる。あまりにあたりまえすぎるために、私たちはその重要性に全く気がつかないでいる。
 そして、いざ重い病気になるとあわてふためき、医者、治療師を訪ね歩き、あげくの果ては、得体の知れない霊能者や新興宗教におすがりすることになる。新興宗教に入信する人々のおよそ70パーセント以上は、病気が理由で入信するのだという。自らにふりかかった不幸は、つい「なぜ自分だけが、こんなめに遭わなければならないのか?」などと思うものだが、実は自分があまりに自らの生命に対し、無知であるがゆえということが多いのである。
 なにごとも、知らないということはおそろしいものである。
 たとえば、堕胎を数回したことのある女性が乳ガンにかかった。原因がわからず、悪い霊能者などに「それは水子の霊のためだ」と脅され、まんまと数十万円のお布施を払わされた、という話がある。
 しかし、真相はこうである。堕胎をしたということは、妊娠の途中で堕ろしてしまったということである。その女性の体は、赤ちゃんが生まれてくるときのための準備を着々と行なっている途中であったわけだ。ということは、女性の体は赤ちゃんのために乳房にさまざまなホルモンや栄養素を集め、授乳のための準備態勢をととのえていたのである。乳腺も活発にはたらきだし、脂肪系のものも乳をつくるため集まってくる。ところが、準備はととのってきているのに、それを途中で中止してしまう。赤ちゃんに吸われることなく、集まったさまざまなホルモンや脂肪系栄養素は、そこにたまったまま残留することになる。よどむ水は、いずれ腐ってしまう。
 このように、生命における因果律をきちんと見極める目をもっていれば、「水子の霊」と脅されて、鵜呑みにすることはなかろう。
 堕胎は、いままで生きようとして胎内にしっかり宿っていた命を、残酷にも器具でかき出してしまうのであるから、そういう傷やかき出しきれなかったような増殖細胞がそのまま残ると、いずれ長い年月がたって、子宮ガン等につながる可能性もあるように思われる。
「生命ほど尊いものはない」などといいながら、それをこの地球上でもっともおろそかにしているのが人間である。ある意味で人間ほど生命に対し、いい加減で無責任な動物はいまい。そのくせ、いいわけばかりしているのである。
 
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]