実録・幽顕問答より
古武士霊は語る

近藤千雄・著 潮文社


 
まえがき


 ここに紹介するのは、今から数百年前に無念の割腹自殺を遂げた加賀の武士が、積年の願いを遂げるためにほぼ百五十年前の天保十年に筑前(福岡県)のある家の若主人に憑依して出現し、その宿願を果たすとともに、ことのついでに現界と死後の世界とのつながりについて物語った興味あふれる実話です。
 霊の実在と死後の存続についてこれほど生々しく証言する実話は世界でも珍しいだけでなく、その積年の願いというのが日本人にしか理解できない、いかにも武士らしいものであり、しかも武士道の鏡のようなその精神がかえって死後の霊的向上を妨げることになっている点で、われわれ日本人にとってまたとない教訓を暗示していると思うのです。
 私がこの心霊話に興味をもったのは今から三十年余り前の大学生時代で、浅野和三郎の『幽魂問答』を読んでからです。私自身にも武士の血が流れているからでしょうか、いかにも古武士らしい毅然とした凛々しい態度に一種の共感さえ覚え、無念の切腹にいたる経緯を涙ながらに語るくだりは、何度読んでも目頭が熱くなるのを禁じ得ませんでした。
 しかしその後、西洋の霊言や自動書記通信を通じて普遍的な霊的真理に触れていくうちに、私の理解の仕方にも変化が生じてきました。といって、すべてを否定的に捉えるようになったわけではなく、最初は気づかなかった意義を数多く見出しております。要するに私の理解が深まったといえましょう。
 さて今年(一九八八年)に入って、これとは少し趣が異なりますが、同じく古い米国の霊言記録の全訳に取りかかった頃から、なぜかこの日本の実話が気になりはじめたので、もう一度 『幽魂問答』を引っぱり出して読み返してみました。このたびは日本人としての共感を超えて、純粋にスピリチュアリズム的な観点から冷静に読みました。
 とはいえ、二十二歳の加賀の俊才が切腹の止むなきに至った時の無念の心情を切々と物語る場面は、またしても涙を抑えることができませんでした。
 その詳しい経緯はあとでご紹介しますが、読み終えてから私は、米国の記録を翻訳する前にこの武士の物語にスピリチュアリズム的な解説を施して紹介する方が、西洋的なものに取っつき難さを覚える読者にとって、霊的事実の理解の参考になるのではなかろうかと考えはじめました。
 しかし、ただそれだけでは芸がなさすぎる――もっと新しい資料を添えないことには、と思って早速その霊現象の起きた家の現在の子孫の確認作業に取りかかりました。
 何しろ百五十年も前の話ですから困難を覚悟の上でしたが、幸いなことに、その憑依現象に際して審神者をつとめた宮崎大門が近郷の生松天神社の宮司であったことから、その神社の所在をまず突き止めることができました。現宮司が十五代目に当たりますが、右の実話をご存知だったのは先代の未亡人の宮崎ナツヨ刀自で、その方を通じて憑依現象の起きた家の子孫の現在の住所と氏名も知ることができました。
 電話番号も分かったので早速お電話して確認したところ、間違いありませんでした。そして私が直接お伺いしてお聞きしたいことがある旨を告げると、「どうぞ、いつでも」という快諾をいただきました。
 現地を訪れて知ったことは、この心霊譚が心霊研究家や郷土史家の間で意外によく知られていて、私と同じように訪ねてくる人が多かったということです。宮崎刀自のお話によると、宮崎大門による毛筆の記録『幽顕問答』が西日本新聞社の前身の筑紫新聞社(明治四年創刊)によって活字本にされたことがあるとのことで、浅野和三郎の『幽魂問答』はたぶ
んそれを現代風に書き改めたものと思われます。
 しかし私が問題としたいのは、その理解の仕方です。一般の人はこれを怪奇現象としての與味の段階に留まっており、これをきっかけとして深く死後の世界の実在にまで踏み込む人は少ないでしょう。そこまで手引きしてくれる心霊学的知識がまだまだ普及していないのですから無理もありません。
 幸い私は学生時代からこの種の現象――“霊言現象”ないしは“招霊現象”という――に数多く立会い、地縛霊や因縁霊の実態を目のあたりにする一方で、英米の高等な霊界通信や霊言集を数多く読み、そのうちの主なものを翻訳してまいりました。
 本書はそうした私のこれまでの体験と知識とを傾けて、多くの犠牲と無念の思いの中で展開されたこのドラマチックな心霊現象の意義を明らかにする試みです。そこに、数百年の歳月をかけて演出された現象の、そもそもの目的と意義があったと信じるからです。

 では、ここでその物語の主人公である加賀の武士・泉熊太郎の話の概略を説明しておきましょう。
 泉家は殿様から三振りの刀を拝領するほどの由緒ある家柄だったのですが、推定で西暦1200年前後、たぶん源頼朝が実権を掌握した鎌倉幕府初期に(武士は“数百年前”としか言わず時代名も殿の名前も“武士の忠義”として最後まで明かしておりませんが)加賀の国に騒乱が起こり、それに巻き込まれた父親が濡れ衣を着せられ、毆のお咎めを受けて国外追放処分となりました。
 別れに際して父親は母親に「自分は濡れ衣の乾くまでは帰れぬが、泉家は熊太郎にぜひとも再興させよ。三振りのうちのI振りは伝家の宝刀として彼に伝えさせよ」といった主旨の遺言を残し、熊太郎自身にもそう言い聞かせておきました。が、父への思慕の念を断ち切ることのできない熊太郎は、母の再三の制止をも振り切って、そのI振り(太刀)と大判の金貨十一枚をたずさえて父のあとを追います。数え年十七歳、今でいえば十五、六歳の時のことでした。 それからどこをどう辿ったか途中のことは分かりませんが、家を出て実に六年目の二十二歳の時に芸州(広島県)のヌバタ(漢字不明)というところで再会します。しかし父は大いに怒り「母の命に背きしは取りも直さず父の命に背きしなり……」と、いかにも武士らしい厳しい言葉で熊太郎を咎め、その夜のうちにこっそりと船出してしまいます。
 それから三。月余りのちに、こんどは、九州小倉で父を見つけ、言葉を尽くして随行を願うのですが、この時は父は一言の返答もせぬまま肥前(佐賀)の唐津へ向けて行ってしまいます。熊太郎もそのあとを追うのですが、その途中で心身ともに疲れ果て、無念のうちに切腹して果てます。
 その遺骸は自然に土に埋もれたのか誰かが埋めたかは分かりませんが、ともかく、その上に問題の家が建てられました。そのことが不愉快でならない武士の霊は、何とかして自分の存在を知らしめて、せめて石碑でも建ててもらいたいとの一念を抱き続けて数百年の歳月が流れました。いつしかその屋敷が“怪けもの屋敷”と言われるようになるのですが、今から百五十年ほど前の天保十年の七月四日に、そこの若主人が急に熱病にかかり、一二月近くたったころから妙なうわごとを言うようになります。家の者も医者もこれはてっきりキツネがついたものと思って、近郷の宮司・宮崎大門に加持祈祷をお願いします。
 ところが祈祷をしているうちに、危篤状態のはずの病人がむっくと起き上がり、凛然たる武士のごとき態度で正座し、「余は怪物でもキツネの類でもござらぬ。元は加賀の武士にて……」と語り出したのです。かくして“顕”と“幽”との問答が始まるのですが、話が発展するうちに宮崎氏が加持に使用した太刀が実は熊太郎が所持していた“伝家の宝刀”だったことも判明して、因縁の不思議がますます深まります。
 そして最後は“高峰大神”という立派な擅号(賜り名)をもらって祀られることになって、この事件もめでたく落着します。今でも毎年七月四日に、近縁の人たちが集まってささやかなお祭りを催すとのことです。
 私がこの物語を重要視するのは、日本人特有の話の面白さだけでなく、その間に武士が数百年間にわたって霊界から見てきた現実界とのつながりを、西洋の霊界通信とは一味違った形で随所で漏らしている点です。
 それから、副産物として数百年前の古武士が筆勢もあざやかに毛筆を揮ったことも圧巻と言えるでしょう。居合わせた人たちは「いまだ墨痕の乾かざる、数百年前の古筆を拝覧するとは世にも稀なる事柄でござる」と言って感嘆したそうです。本書では止むを得ず縮小して紹介してあります。このほかにも〈泉熊太郎〉をはじめ加賀の地名を幾つか書いているのですが、それらは「公にしてくれるな」との本人の望みを聞いて、宮崎氏は公表しておりません。

 さて、この話は実話ですので、広く紹介するに当たって考慮しなければならないことが二つあります。
 一つは、浅野氏の『幽魂問答』は宮崎氏がほぼ百五十年前に記した文書の活字版を現代風に改めたもので、言ってみれば一種の翻訳です。となると、その原本が今もどこかにあるはずで、できることならそれを確認しておくべきだということです。
 私は英国の霊媒モーリス・バーバネルの口を借りて語った三千年前の霊シルバーバーチの霊 言集を『古代霊は語る』と題して翻訳・紹介する際にも、あらかじめ渡英してバーバネル氏と面会し、その生の声と肌(握手)に接してその人間像を把握し、それと同時にシルバーバーチ霊の印象を直観して帰りました。
 また、それより半世紀も古い英国の自動書記通信、ステイントン・モーゼスの『霊訓』を全訳する時も、モーゼス自身はもうこの世の人ではありませんでしたが、せめてその自動書記の原本の写しでもと思い、八方に手配して入手し訳書の冒頭に掲載しました。(もう一つの霊界通信、ジョージ・オーエンの『ベールの彼方の生活』はオーエンがすでに他界している上に、その冒頭にノースクリップ卿とコナン・ドイルの推薦文が掲げてあるので、それが何よりの証言であると考えて特別のことはしませんでした)
 人類の精神的遺産として末永く残すべき、こうした貴重な資料を紹介するに当たっては、それだけの手間をかけるのが義務であるというのが私の信念です。本書を著すに当たっても、ぜひとも尽くすべき手段はすべて尽くしておこうと考え、その作業に取りかかりました。
 まずその原本について生松天神の宮崎刀自に電話でお尋ねしたところ、何代か前に他の資料とともに郷土史家にお貸ししたきり戻って来ず、今は行方不明であるとのことでした。そうなると、入手できる可能性としてはどこかの古書店にまわっているケースしか考えられないと思い、福岡県下の古書店に片っぱしから電話を入れてみましたが、そのようなものは見たことも聞いたこともないという返事ばかりでした。

(以下、著者が原本を確認するために図書館や関係先をいろいろと調査していかれる内容は、ここでは割愛します――なわ・ふみひと)

 
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