実録・幽顕問答より
古武士霊は語る

近藤千雄・著 潮文社


 必死の加持祈祷

 まず祝詞の奏上から始まりました。すると奇妙なことに、臥していた重病人の市次郎がむっくと起き上がり、床の上に正座し、両手を膝の上に礼儀正しくのせて、いかにも神妙にそれに聞き入っております。
 やがて宮崎氏が十種の神宝の古語を誦じながら白羽の矢で病人の肉身を刺す修法を試みましたが、病人は身じろぎもせず端座したままです。
 次に「八握(やつか)の剣!」と唱えつつその矢を胸元近くまで刺す仕草をした時は一瞬のけぞりましたが、すぐにまた姿勢を正して端座しなおしました。その時の様子はとても重病人の市次郎とは思えず、宮崎氏はこれはまさしく怪物のしわざに相違ないと、必死になりました。
 しかし、どういう法を用いても効験がみられないので、いよいよ今度は信太郎に持たせておいた長剣を抜き払って、真っ向から切りつける仕草をしましたが、これを恐れるどころか、反対にしっかり座り直して、たまたま傍らに置いてあったキセルと火入れ(炭火を入れておく小さな器)を左右の手で握りしめ、宮崎氏が振りかざした長剣の切っ先を鋭い眼差しで睨みつけるのでした。右へ振れば右へ、左へ振れば左へ、油断なくその切っ先から目を離さず、瞬き一つしません。まさに一騎当千の古武士の風貌をほうふつさせます。原本では《一騎当千の物部百万の剛敵をも挫く軍師大将の器もかくはあるまじと思うばかりなり》とあり、傍注として《この時の趣はなかなか短筆にては書取り離し。その座に居合わせたる三、四十人の人々、それを見てよく知るところなり。面色みな青ざめ、身の毛もよだちしと後に言えり》とあります。(漢字・送りがな一部修正。以下同じ)
 しかし最後に宮崎氏が刀を高く振りかざして声高に呪文を唱えてから
「エイヤ、オー」
の掛け声とともに振り下ろす仕草をした時は、握っていたキセルと火入れを放り出して飛びじさり、謹んで平伏しました。
 その時、二ヵ月近くも伸び放題だった乱髪がパラパラと垂れ下がって顔をかくしたので、そ
の凄さは筆舌に尽くし難いものになったそうです。
 ところで宮崎氏は病人が飛びじさったくだりのところで
《霊も右の神文を聞き分けしか余が持ちたる長剣にて切りつけられたると悟りしにや》と述べていますが、これはむろん後者の方でしょう。
 霊的現象の科学的研究によって明らかになった事実の中でもっとも大切なことは、霊の世界では思念が実在であり、言葉のような単なる音波の現象にすぎないものは通じないということです。したがっていくら立派な内容の祝詞や呪文を唱えても、あるいはそれをいかなる仕草とともに唱えても、伝わるのはその思念だけであり、そこに真剣味や誠意、まごころがこもっていなければ何の効験もないことになります。
 そういうわけで、宮崎氏の掛け声に市次郎が飛びじさったのは、宮崎氏の真剣味が思念の固まりとなって霊に伝わったからでした。
 思念の実在性を目のあたりにした体験の中で私が印象ぶかく思いますのは、師の間部詮敦氏(注@)が審神者となって行った招霊会において、出て来た霊が酒を所望した時のことです。たぶん地上で大酒飲みだったのでしょう、ふてくされた態度で
「酒を出せ!」
と凄むので、間部氏がほんの少し暝目してから
「はい、どうぞ」と言うと
「おお、これはこれは」と言うなり、いかにも美味そうに、ぐいぐいと飲みほす仕草をしました。本物の酒を用意したわけではありません。間部氏が背後霊との共同作業によって意念で酒をこしらえたのです。
 この物語の主人公も、これから告白する気の毒な事情から無念・残念の思いの中で切腹し、その″念″によって数百年ものあいだ進歩を妨げられてきたのです。言ってみれば自らこしらえた“思念の牢獄”から抜けきれないために、こうして人間に迷惑をかけるような手段に訴えねばならなくなったわけです。地上時代の思念、心掛け、信仰がいかに大切であるか、この物語はそのことを強烈に訴えております。

注@間部詮敦――江戸中期の御側用人・間部詮房、江戸末期の老中・間部詮勝の直系で、元子爵。長兄の詮信氏とともに稀にみる霊能者で、私たちは老先生、若先生とお呼びしていた。とくに老先生の方は霊感を五感と見分けがつかないほど自在に使いこなしておられた。私は若先生との ご縁がとくに深く、高校生の時から大学四年間、特別の指導を受けた。神職の資格をもち、精神統一の修行の時はよく″十種の神宝″の古語を唱えておられた。浅野和三郎の弟子として修行しておられ、人生指導と心霊治療を主体に各地をまわってスピリチュアリズムの普及に貢献された。
 
← [BACK]          [NEXT]→
 [TOP]