実録・幽顕問答より
古武士霊は語る

近藤千雄・著 潮文社


 容易に消えない生前の習性

 ところで、ここで一つの素朴な疑問が出てこないでしょうか。高さ一尺二寸の石碑に自分の姓名を刻み七月四日と記してもらうために、なぜ一人の人間を病気にさせ大勢の人の手を煩わせるのかということです。
 病気にさせられ、その体を占領されてしまった市次郎こそいい迷惑です。そういう犠牲によって多くの人が救われるというのであれば話は分かりますが、たった一人の武士の無念を晴らすための犠牲とされたのでは堪りません。事実、市次郎はこの武士が体を離れたあと、自分が無意識状態になっていた間の話を聞かされて
「いかなる武士の霊かは知らぬが、なぜよりによってこの自分を苦しめるのか。全快の上は墓を掘り起こして恥をかかしてやる」と言って口惜しがるのですが、無理もないことです。
 面白いことにその武士は墓についての話の中で「向上して高貴な霊となり清浄の境に入った者は墓をあばかれたからといって祟(たた)ることはない」といった主旨のことを述べております。それだけのことを知りながらなぜ自分は石碑ごときにこだわるのか――これには実はわれわれ地上の人間にとって、善悪の次元を超えて、大いに心すべき重大なことが暗示されています。
 それは、人間は生まれ育った環境条件によってがんじがらめにされ、知らぬ間にその奴隷のような精神構造を築き上げてしまっていることだと私は思います。さきに紹介したシルバーバーチという古代霊が五十年にわたる霊的講話の中でそれこそ耳にタコができるほど(シルバーバーチチ自身の言葉で言えば「もううんざりされる方もいることでしょうが」)繰り返し忠告しているのは、常に柔軟な精神をもつようにということで、俗世にあって俗世に染まぬ生き方を説いております。この世の住人となり切らずに、地上を旅する人間であれということだと私は理解しております。
 この加賀の武士は家柄も良く教養もあり、武家の御曹子として幼少時からさぞかし厳格な躾と武芸百般を修め、現代でいうエリートコースを歩んだであろうことは想像に難くありません。もしも父の失脚なかりせば、立身出世は間違いなかったでしょう。が、実はそうした型にはまった精神世界で育ったことがかえって仇となった――言いかえれば、一途でありすぎたために、つまずいた時の衝撃も大きかった、と言えます。しかも、わずか十七歳から二十二歳にかけての血気盛んな時代であっただけに無念・残念が骨髄に徹し、その精神的牢獄から抜け出られなかったわけです。
 こうした場合の霊的背景として念頭に置いていただきたいのは、霊界側においても守護霊をはじめとする背後霊団や地上的な縁のある人たちが、あの手この手を尽くして目覚めさせようとしていることです。が、いかんせん、本人は霊的・精神的に異常な状態にあります。しかもこの武士に関して忘れてならないのは、自殺しているという事実です。
 このあとの告白の中で「われ切腹して死したる故にや、人並みの場所には居苦しく……」と述べているように、自然の摂理に反した行為にかかわる因果律は、ことのほか厳しいもののようです。そうした経緯から、この武士の場合はどうしても地上的な縁を糸口として解決していくほかはなかったわけです。
 では、犠牲となった人たちは偶々そういう目に遭ったのかということになりますが、実はそうではなく、その人たちはその人たちなりに、そういう目に遭うべき因果律が働いているのです。シルバーバーチがこんなことを言っております。

そのうちあなた方も肉体の束縛から解放されて、曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば、紆余曲折した一見とりとめもない出来事の絡み合いの中で、その一つ一つがちゃんとした意味をもち、あなたの魂を目覚めさせ、モの可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解なさるはずです

 この加賀武士の悲運の人生にも、またその霊による祟りを受けた幾人かの人たちの不幸な人生にも、いわゆる“自由意志”によるわがままのとばっちりの要素が皆無とはいえませんが、その大枠においては、然るべき原因があっての然るべき結果であったことは間違いないことです。また、そうであってくれないと困ります。この問題については“結び”の中でも改めて取り上げるつもりです。
 さて、この種の霊的問題の理解に欠かせない、もう一つの大切なことは、人間的な時間感覚で受けとめてはいけないということです。地上の人間にとっての時間はあくまでも地球と太陽の回転運動の関係から生じているもので、決して普遍的なものではありません。たとえば火星の一日はほぼ地球と同じですが、一年は六百八十七日もあります。これが太陽にいちばん近い水星になると、一日がなんと地球の五十八分の長さとなり、それでいて一年はわずか八十八日です。
 ましてこれが霊界という思念の世界となると、意識の集中の度合によって時間の経過が速くもなれば遅くもなるので、事実上、地球でいうような時間というものは存在しないのです。いわば“主観的時間”なのです。時が刻々と過ぎていく……というような“経過”もないのです。 くだんの武士がこのすぐあとで述べることを一節だけ先に紹介しますと、
「顕世にて一代を閲(けみ)する間も幽界にては一瞬の間と思わるるものなれど、その苦しみは人に祟りもすべきほどのものなるぞ」
というのです。数百年もの間よくも……とわれわれは考えたくなりますが、それはあくまでも地球的時間感覚にすぎないことを理解しないといけません。
 
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