実録・幽顕問答より 古武士霊は語る 近藤千雄・著 潮文社 |
死後の世界を語る 武士は高ぶった声でこう語ります。 霊「かくまで道理を述べてもなお聞き分けなきや! 義を失い武士道に背きてまで願望を遂げたりとて何をかせん。武士たる身の書くまじきことを書きて私願を遂げんよりは義を完うして弓矢の神法にかかりて煙とならんこそ本望なり。イザ、御弓矢の行事をなされよ!さてさて無念を抱きて果てし身はどこまで口惜しきものなるかな。正しき道理を説けども人の疑念を晴らすよしもなし」 そう嘆いてしばし黙然としておりましたが、今度は語気を転じて平静にこう述べました。 霊「およそ幽界より顕界に言語を通ずるは尋常なる霊の為しうるところにあらず。われ数百年の苦痛に堪え難ければこそ、かくは人に憑(よ)りて頼むなり。いよいよわが望みの遂げ難しとならば、市次郎の死すことは必定なり。もしわが望み叶いし時は四、五日のうちに病気は平癒せしむべし。 病気の平癒を証拠に石碑の建立を頼むことは叶わぬものか。もしそれを承諾あらば、われは幽界に帰りて石碑の建立される日を待つべし。顕世にて一代を閲する間も幽界にては一瞬の間と思われるものなれど、その苦しみは人に祟りもすべきほどのものなるぞ」 ここに至って宮崎氏もすっかり感服し、こう述べるのでした。 宮崎「武士たる者の大義を失いて私願を遂げんよりは弓矢の神法にかかりてんとは、武士たる道を守るの言葉にも思わるる故に、かかる忠言義心を徒らに捨つるもまたわが本意にあらず。全くもって武士の霊たることの証なり。 さらば、これより幽界の摂理につきて数力条を聞くべし。わが問いに一つ一つ答えよ」 すると武士は、きっとなって非常に大事なことを述べます。本来の霊格が決して尋常一様のものでないことがこれで知れると言ってもよいでしょう。 霊「その前に一言申し置くべきことあり。顕界の事情をみだりに幽界へ漏らすわけに参らぬごとく、幽界にも顕界に漏らすわけに参らぬ秘密があるものなり。死後の世界は生前に考えおるものとはいたく異なるものぞ。そのことは、おのおの方も死すればたちまちのうちに悟るべし。 余は幽界の者なれど、かくの如く人体に憑(かか)りおる間は幽界のこと、いと微(かす)かなり。それと同じく、人体を離れて帰幽せば、人間界のことはすこぶる微かにして、心をこめしこと以外は明らかには知り難きものなり。 人間界に漏らし難き幽界の秘密、および人間が知りて却って害ある事は申すまじきゆえに、そのつもりで問われよ」 かく述べて威儀を正して問いを待っている姿はとても病める市次郎とは思えず、まさしく豪傑の武士が座敷に構えている心地がして、当家の者が湯茶を差し出す時も思わず平伏して捧げ、父親の伝四郎もふだん息子に向かって使用している言葉が出なかったといいます。 ここで疑問に思われてならないのは、これほどまでにすぐれた武士、そして多分霊格そのものは相当なものを秘めているはずの霊が、なぜまたそのような人を苦しめる行為、あえて言えば“霊としての罪”を犯してまで私願を遂げようとするのかということです。 しかし、そこにこそさきに述べた地上的精神構造の恐ろしさがあるのです。“主君”に対する忠誠心の方が霊としての摂理への忠誠心をしのいでいるのです。民族の伝統と慣習および各時代の要請は大切にしなければなりませんが、その背景として普遍的摂理の理解がないと危険であることを教えてくれております。それはシルバーバーチをはじめとして多くの高級指導霊が異口同音に説いているところでもあります。 さて宮崎氏の質問が始まりました。 宮崎「切腹ののち、そこもとは常に墓所にのみ鎮まりたるか」 霊「多くの場合、墓所にのみ居たり。切腹のみぎりは一応本国(加賀)へ帰りたれど、頼りとすべき地もなく、ただただ帰りたく思う心切なるが故に、すぐに墓所に帰りたり」 吉富「本国へ帰らるるには如何にして行かれしぞ」 霊「行くときの形を問わるるならば、そはいかに説くとて生者には理解し難し。いずれ死せばたちまちその理法を悟るべし。生者に理解せざる事は言うも益なし。百里千里も一瞬の間にて行くべし」 宮崎「本国のほかにもどこぞ行かれし所ありや」 霊「七年前にある所へ行き九カ月ほど滞在したれど、ただただ帰りたきまま帰りたり。その二度墓所を離れしよりほかに行きたる所なし」 宮崎「その九カ月の間はただ一カ所に留まりたるか。あるいは方々を巡りたるや」 霊「高山幽谷に幽界あり」 宮崎「それは日本のことか外国のことか、それとも別世界のことか」 霊「九州に魂の集まる所あり」 宮崎「九州のほかにもありや」 霊「いずれの地にもあり。高山の頂上など、幽玄静寂の清浄地には集まるところは多けれど、それが何処なるかは明白には告げ難し」 宮崎「そこもとの行かれしは何処なりや。山か川か野か」 霊「たとえば豊前の国(大分)の彦山などのごとき地なり。かくの如き清らかなる高山はそこここにあり。どこと特定しては言い難し」 宮崎「いかなる縁にて行かれしぞ」 霊「一人の武士の魂と一つになりて行きたり」 宮崎「二つになるとは形の上で一つになることか。二人が一体となりうるものか」 霊「霊魂は五十にても百にても一つになることは自在にて、集まりて一体となりしものが元の一つよりさらに小さくもなりうるものなり。また、一人の魂にても怒る時は百の魂より太くならるるものなり」 ここで二つばかり解説が必要のようです。一つは武士がここに述べた霊魂の自在性についてですが、人間は出生以来“脳”を制御室として四、五年かかってどうにか運動機能と言語機能を使いこなせるようになり、その原理が潜在意識(精神)に記憶されて、以後、心身が一体となって行動し、いつしかそれが当たり前であるかのように思い込むようになっていきます。実際は当たり前ではなく奇跡といってよいほどうまく出来あがっているのであり、本来は精神と身体とは別ものであることは、脳に障害が生じた時、ないしは脳との連絡機能がマヒした時の不自由さを見れば明らかです。 シルバーバーチ霊は人間を“霊と精神と身体の三つが一体となったもの”と表現していますが、その“霊”こそ自我の中枢であり、生命力の源泉です。それが目に見えない存在であるためにたいていの人は人間とは身体であると思い込んでおりますが、霊が存在することを信じている人でも、他界した人を思い浮かべる時は、身体に宿っていた時の姿すなわち地上的人物像を想像しがちです。 しかし、この加賀武士が言っていることから想像がつく通り、霊というものには本来人間が想像するような一定の形体はなく、静止している時は球形をとることが多く、しかも変幻自在にどういう姿でもとることができます。大きいとか小さいとかはあくまで三次元の地上の物理的観念にすぎません。「百里千里も一瞬の間にて行くべし」というのも、電気や光の運動を考えれば、別に不思議ではありません。人間は物的身体に閉じ込められているから動きが鈍くなっているに過ぎません。 次に注意しなければならないのは、少し前のところで霊魂の集まる場所について述べていますが、そのニュアンスが霊とはどこかにじっとしているかの印象を与えることです。実際は霊の世界の方がはるかに活気があり躍動的で、創造的活動に満ち満ちているのです。 ただ、そういう段階にまで至らない、いわば地上的雰囲気の中に留まっている霊は、仏教でいう“蓮の台“の極楽の世界に安住しているか、それともこの武士のように地上との縁が切れなくて悶々としている霊です。これを地縛霊と呼びます。 この武士が言っているのは何らかの目的で一時的に集結する場所という意味に受け取るべきです。 さて宮崎氏は質問を続けます。 宮崎「一人の武士と一つになりて行きたりと言われしなるが、その武士とはいかなる人ぞ」 霊「余、生前九州に来たりし時、豊前の小倉に九十余日滞在せしことありしが、その時にくだんの武士と兄弟のごとく交わりなり。この人、余と別れしのち猟に行きて山中にて死し、その霊久しく死所付近に留まりしが、あるとき余はその霊とめぐり会い、誘われるまま山中に同行せり。されど、そこは余の心に染まぬのみならず、わが身切腹して死したる故にや、人並みの場所には居苦しく、わずか九カ月ほどにて去りぬ」 この“九カ月”というのは地上的感覚でいうと長いようですが、前にも述べたように、霊界の時間感覚はあくまでも主観的なものですから、必ずしも人間の想像とは一致しません。戻ってみたら九カ月ほど経っていたという意味です。この武士は当家の屋敷をうろついていたので、暦を見る機会も多かったわけです。 宮崎「しからばそこもとは数百年間この地に住めるなり。これより当時のことを問わん」 霊「死して霊となりたる者は顕世のことには関与せぬものなり。顕世のことは見聞きするも穢(けが)らわしきのみならず、霊は人間界のことには関わらぬが掟なり。ただし、生存中に心を残し思いをこめたる事は、霊となりたるのちもよく知ることができ、またよく知れるが故に苦痛が絶えざるなり。およそ霊は人間界の成り行きは知らぬが常なり。されば余も詳しきことは知らず。ただ人体に憑きてその耳目を借りおる間は、人間界のすべてを知りうるものぞ。 さて、余のごとく人の体を借りるに当たりて、それを病ましめるはなぜというに、人の魂は太く盛んなるが故に、これを病ましめざれば余の宿るべき場所の無ければなり。気の毒なれど余は市次郎を苦しめてその魂を脇へ押しやり、その空所に余の魂を満たしぬ。 市次郎の体は今見らるごとく大病人なれど、内実は余の宿なり。されば前に述べたるごとく幽界に入りては人間界のことは知らぬが道なれど、ただ人体に憑(よ)りたる間のことはよく知りおれば、何事にても問われよ。また生前に心をこめし事もよく知りおるなり」 宮崎「さらば人間界において弔祭(供養・祭礼)など催すとも幽界の魂には通ぜぬことにならずや」 霊「なかなかしからず。考えてもみられよ。神を祀り魂を供養するは、たとえ人間界の催しとは申せ、そはみな幽界に関わることにあらずや。故に祭祀は神にも通じ霊魂にも通ずるなり。金銭のやり取り婚姻等の俗事は穢(けが)らわしければ、霊はこれを見聞きするを避くるなり。 霊となりては衣食ともに不要なるが故に欲しきものもなく、ただ苦を厭い楽しみを思うのみなり。 さて祭事を行うに当たり人々俗事を忘れて親しく楽しむ心は幽界に通じ、祭られし霊魂もこれに感応して歓ぶ。歓べば自然に魂も大きくなり、徳も高くなり、祭りを行いたる者も幸福を受くるものにて、人間界より誠を尽くせばその誠よく霊に通ずるものなり」 人間の一人一人に魂の親ともいうべき守護霊が付いており、その配下に複数の指導霊が控えていることは心霊学によって明らかとなりました。守護霊は一定の水準の霊格を具えた高級霊ですから波長が霊妙で、したがって物的波長と合わないために、直接指導に当たることの出来る波長をもつ霊に任せるわけです。俗世が穢らわしいから近づかないのではなく、波長の原理で近づきにくいに過ぎません。 指導霊は地上的な縁でつながっている霊が多いようですが、縁もゆかりもない、たとえば外国人の霊がついていることもあり、中にはたいへんな高級霊が修行のために波長を下げて引き受ける場合もあります。 どうやらこの武士は、武士道を美化して修めた当時の感覚がよほど根強く残っているとみえます。「顕世のことは見聞きするも穢らわしきのみならず、霊は人間界のことには関わらぬが掟なり」とか「金銭のやり取り婚姻等の俗事は穢らわしければ、霊はこれを見聞きするを避くるなり」といったセリフは「武士は食わねど高揚子」式の気概が一種の偏見となって残っている精神樹造から出ているようです。 シルバーバーチは三千年前に地上生活をしたことのあるたいへんな高級霊ですが、そのシルバーバーチでさえこんなことを言っています。 「私たちがこうした真理の普及に努力するのは、それが霊的法則だけでなく物質の法則とも密接にかかわり合っているからです。私たちの目から見れば、この物質界も宇宙神の支配下の全大宇宙の一部であり、絶望の淵にあえぐ地上人類の苦悩に無関心でいるようでは宗教心を説く資格はありません」 古来、金銭や性についての偏見がどれほど多くの不幸を生んできたことでしょう。お金がなくては生きて行けないし、性生活なくしては自分の存在もありえないのですから、それ自体は少しも穢らわしいものでないに決まっています。問題はその使い方と執着心と邪心でしょう。必要最低限の金銭と正常な性生活は地上生活の基盤ともいうべきものであることは、それが欠けた時の悲劇を見ればおのずから明らかです。 なお最後のところはいかにも祭られるだけで徳が高くなるかの言い方になっています。むろん向上進化はそんな単純なものではありませんが、ここでは最後のセリフ「人間界より誠を尽くせばその誠よく霊に通ずるものなり」ということを言わんとしていると受け止めるべきでしょう。この誠心誠意のまごころこそが人間界と霊界とをつなぐ基本であり、“祈り”の真髄もそこにあるのです。 |
← [BACK] [NEXT]→ |
[TOP] |